消費

ジェンダー差別がどうとか政治が社会情勢がどうとか、確かに課題点を解決しようとする行動自体は称賛されるべきものなのかもしれませんが、私は性格が悪いのでなんだかものすごく生きずらそうな生き方ですね、としか思えないんです。
自分で自分の視野を狭めているような、理想主義というのかよくやるよなぁ、みたいな。

創作を消費していることが許せない。
存在する物最終的には消費される定めなのかもしれませんが、どうしても好きだったものを忘れてしまったり、いつか興味が薄らいで好きではなくなる(自分の中での価値が無くなる)のが恐い。

私の中で創作は娯楽であって、至福であって、逃げ道であって、烏滸がましいことは承知で私の感性の大半を支えているものでもあるからその価値が消えてしまったらきっと生きていけないだろうし、自分が認識している私が崩れてしまった時、私が空っぽになってしまいそうで本当に恐い。

でも決して私は賢い人間ではないから、その節の感情に気が付く度にその都度自分の思考を洗脳させる、くらいしか解決方法が思いつかなくて、根本的解決になっていないのを理解していながら何度も繰り返し続けている。

それはそれで漠然と卑怯だと思えますが、根底にある自分はいつまでこの人にとって価値のある人で居られるのだろう、という日々の思考を創作・存在するものと重ねてしまっているのかなとも考えたりしています。


焦燥感が私を襲う。
それは少なからず自分の中に理想とか憧れとか、ああなりたいって思うものに近づきたいという感情がある癖に何も得ていない日常に耐え兼ねた先の感情であるのではないか。

一日が恐いくらいのスピードで過ぎていって、朝起きて顔を洗って生活のタスクをこなしたら夕方で寝る準備を始めて、ここでようやく勉強とかやらなければならないことが出来るのだけれど、焦燥感が邪魔して全然集中出来ないしなんなら焦燥感から逃げたくて文章書いたり本を読み始める始末で、時間が過ぎてこれはヤバいと机に向かうも結局集中し切れずにそろそろ寝る時間か、と何も出来ないまま布団に入る。

布団に入っても焦燥感は消えないし、ああ明日が来て欲しくないなとか月並みな事を考えていたら朝四時になっていて目も冴えてしまったしこの間に勉強しておけばよかった、と更に焦燥感が強まり結局最終的に自傷か薬で解決して眠りにつく。


主に私の中では漠然とした希死念慮と強迫的な希死念慮の二種類が存在していて、(具体的な定義は調べてみても統一されていなかったので間違っていても許して欲しいのだが、)とにかく後者が辛い。
前者とは反対に散発的なものであるからか、感情の強さも比じゃないし冗談抜きに息ができなくなる。
書いてどうにかなる訳じゃないけど、マジで辛い。

実際自殺を遂行出来るかは置いておいて、私は死ぬ時期を決めている。それによって永続的な漠然とした希死念慮への耐性をなんとか獲得した。
言ってしまえば単なる先延ばしでもあって、肝心な遂行出来るか、については全く考えていない。
人生のゴールが十年足らずと考えれば良くも悪くも無責任になれるので残りの数年をせめて楽しくに生きる為の努力といいますか。

それに対して後者の効力のある対処法は自傷とODくらいなので、夏はヒソヒソ生きなければならないし銭湯は使えない、薬代は馬鹿にならない金額で正気に戻れば偶に物が壊れてたりでひとつ得る為にふたつみっつ捨てている気がする。

自分の中でそれぞれの価値を天秤で測った時釣り合うからこそふたつみっつ捨てられるのだが、あるに越したことはない。無い物ねだり。

そして春の季節というデバフ。
人生は最高に面倒臭い。こんなことにわざわざ時間を使い思考する自分も最高に面倒臭い。

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