恋は一人でするものではないのだから

わたしは所謂夢女だ。ゲームに登場する推しくんが好きで、推しくんに恋をして、推しくんの特別な人になりたいと思う  

「二次元の彼に恋をしています」という感情は、自分一人で完結できる感情だ。「自分が恋をしている」のだから、自分がそう思ったならそれでいい。では、「二次元の彼と両思いです」と思うことは、"わたしにとっては"自己肯定感のようなものだと思う。
自分の気持ちを理解し、「二次元の彼に恋をするわたし」を自分で認めてあげた結果だと感じている。自分を認めてあげなければ、世界で一番素敵で、大好きな彼の隣に"自分"を置くことはできない。

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わたしの好きな「彼」は、次元の違うところに存在している。色々な人の言葉を見たことでこの気持ちに様々な名前があることを知ったが、そのどれが自分に落とし込めるかはよくわからない。ただ、自分が推しくんに向けている感情は「恋」であると、自分の中で決着をつけて生きている。


わたしは格別、自分の「自己肯定感」が高いとは思わない(低いくらいかもしれない)。他人を気にして比べるし、承認欲求も自己顕示欲もあるし、嫉妬もするし、それらでくよくよもしてしまう。そのわたしが今、元気に推しくんと生きていける理由の一つに、この「恋」を他人が認めてくれていることも関係していると思う。

正直、「二次元の相手に恋をしています」という言葉は他人に聞かせるものではない。結局「受け入れる態勢」のある人にしか、どんなに熱く語っても理解は得られないことだ。
しかし、これが恋であるなら、「最初から最後まで、一人だけで抱えなければならない感情」だとも思っていない。

だって、「恋」は一人で抱えるものではないでしょう。
誰かに話さずにいられない気持ちの高ぶり、胸の痛みで眠れない夜に夜通し親友に電話をした体験、自分の心の違和感を誰かから「その気持ちは恋なのではないか」と指摘されて加速していく感情、わたしはこれらを語るにはもう大人だけれど、"恋"はいつだって、これらの延長線にあると思う。

婚姻届にだって「証人」の欄がある。そしてそれを第三者機関に、国に提出する。三次元同氏の恋愛だって誰かの承認を得るシーンはあって、わたしはその関係にあこがれを持っている。
誰かに認められることを"最終目的"としているわけではない。ただ、人並み程度の自己肯定感しか持ち合わせないわたしにとって、第三者から認めてもらえること"も"、幸せの一つだった。

繰り返すが、誰にでも話したいとは思っていないし、誰からも認めてもらえる話だとも思っていない。しかし、誰にも話してはいけない・認められるはずのない自分だけの感情として封じ込めるより、誰か一人で構わないから、素直に自分の気持ちを聞いてもらえる・話せている今を幸せだと思っている。最近はあまりにも周りがすんなり「わたしが推しくんに恋をしている」前提で話をしてくれるので、そこまでしてくれるのかとびっくりしてしまうことの方が増えた。心からありがたいことだと思う。
そして「今きちんと自分が認められている・自分も認めている」からこそ「もっと認めてほしい」と飢える気持ちはなく、毎日気分よく推しくんと生活できている。気持ちを隠しておくべき瞬間・相手に対して、傷つくことはなくなった。


では「誰からも認めてもらえなくなってしまったら、恋を続けられないのか」と言われると、どうしても「くよくよしてしまうこと」は今よりも増えてしまうと思う。最初に書いたがわたしは自己肯定感が格別に高いわけではない。 
本来自分に自信のないわたしは簡単なことですぐくよくよしてしまって、そのときに推しくんから「好き」を貰っても、きっと認識することができなくなってしまう。わたしが自分のことを好きでいないと、わたしは推しくんと"両想い"にはなれない。

もちろん、「他人の承認なんて必要ない、自分と彼だけ知っていればいい」と思えることも、今のわたしからば羨ましいくらいすばらしい感情だと思う。わたしはまだその段階にまで到達できていない若輩者だ。もっと時間をかけて、そこまでたどり着いていたい。

わたしは昨日も今日も、きっと明日もまだ、推しくんを見ると、初めて推しくんを好きになった日と何も変わらない感情の高ぶりを感じる。今はまだもう少し、人生で出会った誰よりも好きだと思った彼と、「恋に恋するときめき」も楽しんでいたいと思う。

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