卵のお菓子
全員が大阪の言葉を話せないのは偶然だった。浩子は千葉から、私は名古屋からそれぞれ一年前、祐介くんはつい三か月前に福岡から来た転校生だった。転校生同士という気安さはあったけれど、一緒にいれば、他の子たちと仲良くなりづらい。
自由研究の班分けのくじ引きで、偶々私たちが一緒になったのは、転校生三人には少々重荷だった。最初、浩子と私が「星のことを調べよう」、「町の歴史は?」とか、「つまらない」、「面白くない」だの言い合っていた。ふと、二人の視線が黙っている祐介くんにいった。
「田上くんは?何か調べたいものないの?」
「…お菓子。おばあちゃんが神戸にいて。神戸はお菓子がすごくおいしいんだ。神戸に行くと色んなお菓子屋さんに行くんだけど、アリアスってお菓子屋さんのケーキがおいしくて。ちょっと周りが堅くてね、ついてる砂糖がジャリリってするんだけど、中の柔らかいところと合わさると溶けるんだ」
ヨダレが出そうな私たちは、ジャリリの砂糖と溶けた砂糖を食べたいがためだけに、祐介くんの意見に従うことにした。調べものだなんて言って、しようとしたのは食べ歩きだったけれど、おとなしい祐介くんの楽しそうな様子に喜んだおばちゃんが感謝しきりで、私と浩子のお母さんもだめとは言えなくなった。子供だけで行っていいのは江坂まで、大人と一緒なら梅田まで。うちにはそんな取り決めがあったのに、それから私たちは日曜ごとに三宮まで行った。
ある日、アリアスの前まで来た時のこと、裏口に入っていく外国人の女性を見かけた。女性は、私たち三人が大好きな卵菓子の箱をいくつか抱えていたけれど、出て来る時には何も持っていなかった。
「あの!」
女性はビックリして振り返った。
「あの、僕卵のお菓子大好きで。お菓子のことを調べているんです。卵のお菓子、おばさんが作ってるんですか?」
女性は「わからない」と言うように首を振った。祐介くんはそれでも諦めない。鞄から卵菓子の残りを出して口に放り込んだ。女性はビックリしながらもニッコリ笑って、何度か頷いた。
女性。アンナさんの家に行くまでどんな会話をしたのかあまり覚えていない。祐介くんだけが一生懸命お菓子の話しをしていたように思う。日本語がわからないアンナさんは、ニコニコ笑いながら、祐介くんの話しを聞いていた。 彼女の部屋は、洋館の多い北野にあった。周りの家々とは違ってこじんまりした造りの集合住宅で、部屋の中もアンナさんに似ていた。クリーム色のソファに沢山のクッション。花瓶。外国語の本。木製の飾り棚。
日本語が話せないアンナさんと私たちの会話は、お菓子作りだった。最初に教えてもらったのは、卵菓子ジェマ。卵に砂糖、レモンの皮、お酢!それにアーモンドの粉を入れて出来たお菓子を自分たちで作った時のうれしさを今も思い出す。だけど、私たちは家に持って帰らず、近所の公園のベンチに座って三人で食べた。子供心にも親に言ってはいけないとわかっていたのだ。
その日から、私たちの神戸行きはアンナさんの家に行くことに変わった。ハマンタッシェンは、ジャム入りのバタークッキー。少し塩を入れるのがポイントで、中のジャムもアンナさんの手づくりだった。ジャムの他にも、油と芥子の実を入れたこしあん入りのハマンタッシェンもあって、アンナさんは身振り手振りで「なんでも入れていい」と言っていた。悪者の(彼女は、頭に人差し指を立てて悪い顔をした)ハマンの帽子に似てるからハマンタッシェン。
大人になった祐介くんが菓子職人の修行に入ったお店は、お坊さんの笠を模した和菓子を作っていて、「ハマンタッシェンみたいだよね」とお土産に持ってきてくれた。そう言えば、アンナさんの身振り手振りの中で、私たちの流行になったしぐさがあった。「たーくさん」と言う時には、大きく手を広げて、「ちょっと」と言う時には、こぶしを合わせて体まで縮めていた。
お菓子はなんでも美味しかったけれど、お昼時に出してくれるスープは、あまり好きになれなかった。マッツォボールという名前の丸い小麦粉のお団子が入っていて、食べても食べても減らないのだ。
何度彼女の家に行ったのだろう。時間が経って思い出す今では、五回も六回も行ったような気もするし、ほんの三回程度だったような気もする。でも、ある日突然終わった私たちの最後の時間のことだけは、鮮明に覚えている。
いつものようにアンナさんの家のチャイムを鳴らした。ニッコリ笑ってドアを開けた彼女の顔が恐ろしい形相になって、家に入りかけた祐介くんを突き飛ばし、激しくドアを閉めた。何度かチャイムを鳴らしても、ドアが開けられることはなかった。「もういいよ」突き飛ばされた祐介くんが怒って言う。私たちはトボトボと三宮までの道を帰り、その後、もうアンナさんの家へは行かなかった。大人になった今、あの頃祐介くんがよく着ていて灰色と白の縦縞の服を思い出す。
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