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8.信仰を持ったと気付いたとき

 私は教会を訪ね始めたとき、福音書が4つあるということも知らず、聖書を読み進めている内に、「あれ、似たような話が先に書いてあったような・・・??」といった具合で、今から考えると聖書のことを何も分かっていない状態でした。

 そんな私でしたが、福音書に出てくる奇跡の話を読んでいる最中に、ふとしたところで、「あぁ、イエスがこのような人なのだったら、本当に奇跡を起こしていたのかも知れないな・・・」という思いが心に浮かびました。

 そんな気持ちを持ったまま聖書を読み続けていると、ふと「あれ?今俺イエスの奇跡を本当のことだって受け入れたよね!?」「これって信じてるってことじゃない!?」と感じました。

 教会の優しい皆さんの仲間に入れたような、とっても嬉しい心が芽生えたのでした。

 私にとって「自分が神様のことを信じている」と気付いたのは、このように放っておくと見過ごしてしまいそうな、本当にかすかな心の動きが切っ掛けでした。

 今教会で過ごしていると、「自分にはドラマチックな回心の経験がない」という想いを持っている信者や未信者の方に接することがあります。
 そうした方に対しては、特別な声が聞こえるとか、そういう超自然的な事が起こらなくても、自分の心の中で起こっている小さな変化に目を留め、信仰を持っていることを見過ごさないようにする方が良いのではないかと思います。

 私自身は、劇的な出来事の中で、教会へ、また信じることへと導かれたと思っていますが、まだ信じるようになって日が浅い頃、劇的な体験のない日々が続くと、神様は自分に関心を持っていないのでは?と心が離れてゆくことがあり、息苦しさも覚えました。

 でも、そのように劇的なことばかり起こるものではないですし、そればかりを期待するのは、自分の一方的な神様のイメージを神様に押しつける、ある意味傲慢な姿勢であると受けとめるようになりました。

 本当は何気ない日常の中にも、実は大きな導きがあり、そうした日常の中で神様のご計画に驚き、喜ぶこと、そしてそのような導きが続くことを期待して歩むことこそ、本来の信仰のあり方のように感じるのです。
 
 そして、もう一つ感じることは、私自身教会に集う中で、未信者の方を含む沢山の方々と接して来ましたが、その人に聖霊が働くのでなければ、「イエスを主である」と言い表すことはできないということです。どんなに親しく聖書に親しみ教会と長く過ごしていても、最後の一押しが聖霊によってなされないと、この言葉は言えない、という例を沢山見てきました。

 逆に言うと、イエスが主だと感じることの出来る方は、まだ聖書のことをよく知らないなどと躊躇せず、「自分は信じている」と認めて良いと思います。また、できるだけ洗礼もお受けになって、神様との歩みを始められるべきだと思います。

 そう言いながら私自身も、すぐに洗礼を受ける気持ちになれなかったのですが、その間の様子や洗礼については、また改めてお話しします。 

「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」

(口語訳 マルコによる福音書4章30~32節)

画像は、hanasfatherさんのものを使わせて頂いてます。

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