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13.私にとっての洗礼の意味

 洗礼の後、教会の既に洗礼を受けている友人から、「洗礼を受けて何か変わったと感じる?」と質問されました。
 洗礼後も、それまでと同じような日常の生活であり、特別何か変わったような感じはありませんでした。「変化したとしたら何だろう?」と思い巡らせますが、すぐには思いつきません。
 「あえて言うなら」という感じでしたが、ものの見方は確かに変わったような気がする、と友人には答えました。

 それまでは、自分と他者であったり、自分と自分の外で起こっている出来事という風に、自分目線で周りを見ていて、それが余りにも当然で、身体に抜きがたく身についていました。
 でも、(厳密には信んじる気持ちを持ってからなのかも知れませんが、)洗礼を受けた後は、人や物事を見るときに、「神様はこのことを自分とは違った意味をもって見ているかも知れない」という見方をするようになってきたように思います。
 それまでは、「アイツがこんな態度をした」と言って腹を立てていたような場面であっても、「自分は今相手の態度に腹が立っているけど、もしかしたら何か自分の知らないところで神様が計画している何かがあり、この事にも何かの意味があるのかも。」という見方をすることができる場面が出てきました。
 「場面が出てきた」という微妙な言い方をしたのは、そのように余裕を持った見方をできるときばかりはなく、ついついカッとなって自分目線で見てしまうことも多いのですが、それでも少し落ち着いて考えると自分の視点から考えるが絶対ではなく、神様の視点からは、自分には今分からないけれど、別の意味合いがあるのだろうなぁと、少し開かれた心で物事を見つめるようになったように感じています。
 
 そして、洗礼直後には分かりませんでしたが、やはり祈ることについては、洗礼を経たことで、大胆になれているように感じます。
 イエスは、洗礼を受けることを「正しいこと」と言われていて、やはり洗礼を受けることを望ましいと考えておられる、それなら洗礼を受けていない場合よりも、やましく感じず自分の思いを遠慮なく神様に祈ることができる、ということになるように思うのです。
 神様側が洗礼を受けたか受けていないかについて、実際に、どうお考えになるのか私には分かりません。
 でも、少なくとも祈る側である私にとって、抵抗感を持たないでいられる。小さなことのようでもありますが、大胆に自由に祈れることの意味は、私にとっては、とても大きなことのように感じるのです。

そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

口語訳 マタイによる福音書3章13節~15節

画像は、保健委員さんの画像を使わせて頂いてます。


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