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11.洗礼への備え

 10.の記事のような経緯で「洗礼を受ける」と役員の方に伝えると、そのことはすぐに牧師先生にも伝えられました。

 そして、他の教会でも同様だと思いますが、実際に洗礼式が行われるまでには、 準備の学びの機会が設けられます。
 私の場合、既に聖書を学ぶ場を設けてもらっていたので、それがそのまま、洗礼のための学びの場になりました。

 そこでは、洗礼が皆さんの前で自分の罪を告白し、今後は神様を信じて歩みますということを宣言する機会だ、ということを教えてもらいました。

 ほかには、洗礼について、こんな話も聞かせて頂きました。
「恋愛をしている場合に、夫婦として今後も歩みますという時には、結婚式をして関係する皆さんの前で今後この二人で歩みますって宣言するでしょ? そうすることで、周りの人も祝福してくれるし、そのような宣言をすることが、その後の二人の歩みを守る助けになる。
 神様信じる場合も、結婚式のように皆の前で、洗礼という形で、信じて歩むことを宣言する。その事がその後の歩みを守る助けになるんですよ。」
 
 「うーん。なるほど。」
 「あなたに惚れました、ずっと一緒に過ごそう!」と言いながら、「じゃみんなの前で結婚式を」と言われると、「いやぁー、それはちょっとどうかな。決意は固いから安心して。」と尻込みするのは、どこか不誠実かも。
 結婚の場合、経済力とか親などとの人間関係とか諸々制約があるものかも知れないですが、神様を養う訳ではない(むしろ養われるのは自分の方)。なので、経済力なども関係ない。人間関係も大切ですが、洗礼を受けつつ、人間関係を大切にする道も十分ありそうです。

 ということで、この話を聞いて、洗礼受けるかどうか迷っていたのも、馬鹿馬鹿しい迷いだったかな、と改めて感じました。

 そして、洗礼の中で、自分の罪を告白するように求められました。
 これを受けて自分の罪について、改めて考えることになりましたが、6.で紹介した目の見えないご夫妻の讃美の経験があったの自分の中では漠然と、これまで自分が大切なものを見逃してきた、それが罪だと感じ、そのお話ししようかなぁと感じましていました。

 幸い私の洗礼式の予定日の一月前に、小学生2年生の男の子(宣教師の息子さん)が洗礼を受ける予定となっており、私は、その小さな信仰の先輩の洗礼式を踏まえて自分の準備をすることができました。

 彼は、皆の前で「僕はお兄ちゃんに意地悪しました。でも、イエス様。ごめんなさい。もうしません。」と可愛らしい罪の告白を立派に果たし、洗礼を受けました。

 彼の洗礼式での告白や洗礼式の様子は、とても可愛らしいものだったので、私は、傲慢にも、当時小学生だった彼の洗礼式について、長い間、私の洗礼のために備えられたものだったように感じていました。

 しかし、その後、彼は立派に成長してゆき、大学卒業、就職を経て、神学校へと進み、現在教会の働き人になろうと努力を重ねています。
 
 神様の計画にとって、ある人だけに意味があるというのではなく、それが同時に他の人にとっても、意味があるということが多い(というか、そういうことばかり)と感じます。

 この時も、私にとって洗礼に備えるための大切な機会であったと同時に、彼にとっても、その後の人生を変えていく重大な転機だったのだと、改めて思わされています。

 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

口語訳 ローマ人への手紙8章28節

画像は、Portside_A&D_STREETさんのものを使わせて頂いてます。

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