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【前者か、後者か】

既に評価の定まっている音楽、評価の定まっている文学、評価の定まっているアートなどを、好きだ、良い、というのは相対的に簡単だ。
それが好きだ、良い、と表明するために自分の考えを定める努力をしなくてもよいし、世間の評価に乗っかっていれば間違わないからだ。表明することに勇気を要しない。表明することによって自分が非難されることや無視されることは、まずない。それどころか、表明することによって多くの賛同者と接続できる可能性すら担保される。

逆に、評価の定まっていない音楽、文学、アートなどを、好きだ、良い、というのは簡単ではない。
いま私が出会った「これ」は、何なのか、自分の頭で考えなければならないからだ。そして暫定的にでも、好き/嫌いの結論を出した自分の感覚を信じなければならないからだ。そのとき、頼ることのできる大きな外部評価はない。これらの表現には、世間で形成された評価=私の外側に既に作られた正解、がないのだから。
それを好きだ、良い、と表明すれば、は?何それ?それ、どこがいいの?のような反応が返ってくるかもしれないし、完全に無視されるかもしれない。果たして、賛同者は一人も現れないかもしれない。

このような前者の表現と、後者の表現がある。

前者の(評価の定まっている)音楽/文学/アートを、心から好きなら、それを心から素晴らしいと思うなら、まったくもって、それで良いと私は思う。好き、良い、は本人の信念に関わること。そこに他者は不可侵。だから私は完全にゼロ否定、つまり肯定する。

そして私は、後者の(評価の定まっていない)音楽/文学/アートをやる人になりたい。もう少し具体的に言うと、評価の定まっていない、未知の音楽をやる人であり続けたい。と同時に、誰かの後者の未知の表現に出会い、自分の頭で考える人であり続けたい。

未知をつくること、未知に関わること。
こちらに賭けたい。

評価の定まっていない後者の表現=未知の音楽に賭けること。
そのことに悲壮な覚悟なんて微塵もない。
別にこれは、求道的な態度でも、ストイックな態度でもない。大勢への反抗でもないし、逆張りをして「俺はみんなとは違うんだぜ」的なポーズを示しているつもりも、まったくない。また、私個人のメンタルの強度とも関係がないと思う。

これは完全に、私の趣味嗜好にすぎないこと。
メンタルが強かろうが弱かろうが、人はみな何かを好きだという感覚を持っている。
その前提を共有した上で私は、評価の定まっていない未知の音楽が好き、未知の音楽に関わって生きたい、というだけのこと。

このような音楽を、チャレンジングで人間らしくて、すごく面白いと思う。
この後者の音楽の挑戦者のひとりでありたい。
これは、正解のない海へ一人で漕ぎ出すささやかな冒険のようなもの。
そして冒険と言うからには危険が伴う、ような気がする。

けれど、よくよく考えると、評価の定まっていない音楽を創造することから生じる危険、って何だろうか?こんな音楽を創造することは危険なのか?という素朴な疑問が湧いてくる。

とにかく、楽しく嬉しく喜びながら、ささやかな冒険=音楽づくりを続けていきたい。
それが自分の人生の手綱を自分で握ることだと信じるから。

頭でっかちで、実行が伴わないのはいけない。
私のペースで遅く丁寧に、同時に熱狂して、やる。
それは温度の低い、鈍い炎かもしれない。
けれど、それでも、必ず最後までやりきる。やめない。

このことに悲壮な覚悟なんて微塵もない。
だから私の眉間に皺は寄っていないし、歯を食いしばってもいないし、出血するほど拳を握りしめてもいない。

ただ、楽しく嬉しく喜びながら、私の人生の手綱を手放さない。これだけだ。

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#わたしが私として生きるためのエッセイ 45
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#評価の定まっていない表現
#息をするように音楽をする
#日常は日常のままで別次元
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