わかり合えないものしての音楽

私は音楽を楽しむことを本質的に、一人称のものだと考えている。

その人個人がその音楽から何を感じ、何を考えたのか。また、音楽を作る側がその音楽にどのような想いを込めたのかという一人称の視点から離れて、その音楽に関わることはできないと考えている。

つまり、私が言いたいことは、音楽を作る/聴く際には、その人がその音に触れて何を思うかということこそが大事であり、その触れた結果としての想いは他者と共約不可能なものであるということである。

個々人がある音楽に対して感じるものは、大きくは似ているもの(マイナー調の曲を聴いたら切なさを感じるなど)であるだろうが、その細部の感じ方は人それぞれで絶対に同じ感情はないはずである。(これは同一の個人の中でも、時間の経過によって感じ方が変わることとパラレルである)。

その個々人によって絶対に異なるはずの感情を、無理して一つにまとめようとするような動きには嫌悪感を抱かざるを得ない。

例えば、その音楽の解釈をめぐって、これが絶対に正しい聴き方だと主張するような行動がそれに該当する。

楽しい曲を聴いたとしてもそこに切なさを感じるかもしれず、それは個々人の感情次第である。

なので、私は個々人の感じ方が全然違うような抱き方が可能になる、余白の広い芸術作品を好むし、私が鑑賞する際にも、常に”馬鹿げた”鑑賞を行う。絵画の雲を見て、わたあめ美味しそうなどと考える鑑賞の仕方である。

作り手の方が、こう捉えてくださいという主張が強いもの、こういう感じはわかるでしょという一つの読みへと誘導するような作品は正直好きではなく。むしろ、作り手にしかわからないような個人的な思いが詰まった作品こそ、正しく芸術作品だなと感じてしまう。そのような作品においては、無理に聞き手との共感を求めないからこそ、多様な聴き方ができる余白がある。

もとより、偶然作り手の感情と近い感情を持てた場合、それは時に感動と呼ばれる感情を呼び起こすとも思う。

はなから作り手の意図が明らかになっているような作品の感情と、同じものを共有できたとしても、そこには感動は生まれないのではないか。


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