新境地への覚醒は、古傷をうずかせる?
囲碁や将棋のほうでは、棋士たちの対局はもう何年も前より対局という名の研究発表会になっています。
つまり、普段から地道に戦法を研究して、その技がどこまで効くか、人間同士で確認していく作業。それが「対局」になっているそうです。
対局ソフトがAI化して、戦法の研究が異次元世界に突入していったのと時期を同じくしてスター街道をばく進したのが、例の竜王さまでした。
先ほど chatGPT を使って作用素(という数学概念)と量子力学の関連性について質疑を試してみました。
わかんないひとには何を語り合っているのはわからないでしょうが、わかる棋士さんにすれば「うわーここまでひとりで研究会できるんやー」なやり取りでした。
「研究会」とは、棋士どうしが公的対局ではなく私的に普段から対局して戦法を共同研究することです。一対一での場合は「VS」と呼んでいるようですが簡明さを優先してここでは「研究会」と呼んでおきます。そういうものが学徒全般についてAI化できるなーって感じました。
正しい回答を出力できているかどうかはまた別の話です。むしろ、正しい質問を行えるかどうかで差がつくのがわかります。
私は昔からひとりであれこれ学ぶが得意、少なくとも慣れてはいます。自我にいつも「なぜなぜ」生徒を飼いならしていて、何か分かった気になるとかならずこの子たちが「なぜなぜ」「でもでも」攻撃を悪意いっさい無しで仕掛けてくるのを、あの手この手で迎撃するよう、普段からひとり研究会していく感じで、いろんな本や文献に手広く目を通して、再読して、攻撃の隙を与えないか攻撃の隙を事前に予想する努力をしていく…これが私にとっての独習の基本。
「教え上手」になれってことですよ。
そしてこの作業を、大幅に高速化合理化できるなーって、chatGPT を使うたびに思うのです。
同時に苛立ちも感じます。自動車教習所で、車の運転をテストされていて、助手席に教官がいて、何かこちらが運転でミスするごとに減点マークをチェックノートに書きこんでいって、ある数字を切ると「はいそこまで」でテストを打ち切られます。経験ないですかこれ? chatGPT を使っていると、自分の思考が車校の教官によって横から逐一チェックされていて何かしくじるたびにチェックマークを入れられていくような腹立たしさもまた沸き起こってくるのです。
これは私ひとりの現象でしょうか?
それとも皆さんも感じているものですか。
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