量子力学に伴う「こんな親戚の人いたっけ?」感覚について
線型性とか双対性とか、数学には「〇〇性」が頻繁に出てきます。
厄介なことに、物理学を学んでいくと、やはりこのナンタラ性とかカンタラ性とかが出てきます。
ノイズかと思ったら、これこそが主役だと大きな顔をしだすのです。
こんなお隣さんいたっけ?なひとが、いつのまにか町内会の仕切りをしているような違和感というか怖さというか。
数学史の視点で眺めなおすと、物理学とは違う進化の行程が浮かび上がってきます。
もともと違う会社だったのが、あるとき業務提携して、やがて一社に統合されたようなイメージ。
社史を読んでみても、いったいどうしてこんな部署がうちの社にあるのかわからないような部署があって、やがてそれが合併前の、もともと違う社を出自としていると気づくような面白さと、訳の分からなさです。
ディラックの伝説の量子力学の教科書『量子力学』(まんまですねタイトル)は1930年に刊行され、その後何度も改訂されています。
昨日、五度目の改訂版(翻訳監修・朝永振一郎!)を久しぶりに目を通してみて、思ったほど〇〇性が連発されないなと気づきました。
著者はやはり物理学者で、数学者ではないのだなって。
フォン・ノイマンがディラックの同著を読んで対抗心に駆られて上梓した『量子力学の数学的基礎』(1932年)にもざっと目を通してみました。
これも今の私が読むと、〇〇性が思ったほど繰り出されていないことに少しばかり驚かされます。
日本のもの、それも割と現代のものですが『ヒルベルト空間と量子力学』(新井朝雄、1997年)はそういうのがさく裂しています。
ブルバキ集団のリーダー格・デュドネの研究が、物理学(というか数理物理学)のほうに吸収されていった…のでしょうか。時期的にはちょうど重なるのですが。
真相は白い幕の向う側にあって、手を伸ばしても掴めないでいます、今のところ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?