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ギリギリをかすめながら神の英知を目で盗んでいく生き方

私は思春期の頃より、ささやかな劣等感を抱えています。知的劣等感と呼んでいいのかな、ひとから説明を受けてもピンとこないことがよくあるのです。先日も家電量販店で買い物をしたとき、店員さんの説明がさっぱり頭に入らなくて相手の方(中年女性)が困ってしまって連絡用ミニマイクで「すいません助けてください」とほかの店員を呼びにかかるなんてことがありました。

この場合は私はお客様なので大きな顔ができたわけですが、中学、高校生のときはまわりから呆れられました。偏屈とかのろまとか納得しないとやらないとか、学級文集や通信簿の人物評に書き込まれたりしてね。とあるブラック進学塾に通わされていたときも酷い目に遭いました。塾長さまからの暴力付き。それからほかの生徒たちの面前での人格否定。あれで本業は住職だったのだから今振り返ってもびっくりです。後に脳卒中で旅立ちあそばされましたが。

私が坂本龍一の楽曲分析を続けている理由というか動機も、このあたりにあるなってときどき感じます。

彼の音楽はどれも独特で、そして美しい。しかしながらそれをうまく説明できたものがないのです。これまで何度も取り上げてきた話ですが代表曲「メリークリスマスミスターローレンス」はあれほど世界的に知られた傑作でありながら、どうしてあんなにひとの心を引きこむのか、きちんと分析したものを私は見たことがありません。作曲者自身による自作解題もアサッテの方向に飛んでいく代物でしたし。

今、この曲の分析を続けています。私の分析法はごく素朴なものです。すべての音符にドレミを書き込んでいくというものです。素朴もいいところです。しかしこれこそが最高最良の技だと強く感じます。実際このやり方でないと突き止められなかったいろいろが、これまで分析してきたいろいろな楽曲についてあります、どっさりと。

映画のなかのモーツァルトが、たまたま耳にした曲をその場で再演する、つまりピアノで弾きこなすシーンがありました。弾きながら「ああここからは繰り返しなわけね」「ここがどうも気になるな…こんな風に音を変えてみたら…これのほうがいいかな…おおよくなった」と目の前で編曲していって別物に磨き上げてしまうのです。私にあんな芸当はできません。ああいう能力は架空ではなくて、私の暮らしている街にもひとり、小学生の女の子でそういうのができる子がいます。もはや超能力。そういうのに憧れは抱く一方で、私が目指しているものはそれではないという気持ちがあります。オウム返しは創造ではないですよね。私が目指しているのは、音楽に限ったことではないのですが何か素晴らしい芸術作品なり研究なりと遭遇したら、その作者はどういう思考を経てそれを作り上げたのかを解読し、さらにはそれを自分の創造のメソッドとして吸収していくことです。

中2のとき、ホームルームで進学第一希望と第二希望を各人書き込めという課題がありました。進路指導は中3からなので、あくまでその前振り的なものでした。あのときの担任教師はいわゆる名物先生で、私の机を通りかかる時「お前は家から一番近いところを書いとけ。お前どこに行っても同じだから」と笑顔で言われました。ゴーイングマイウェイだから、と。

好きでゴーイングマイウェイな生き方を選んだのではありません。持って生まれたものなのか、やや歪んだ幼年期を過ごした結果なのか、今でもわからないでいますが、自分の意志でそうしてきたわけではないし、目指したつもりは当時も今もありません。しかし彼は私をそうひとことで評しました。おそらくそうなのでしょう。それがどんなに苦しい道のりとなるのか、実際そういう苦しい目に遭ってきた今、当時の私が理解できたとは思えません。まわりのおとなたちも理解できていなかったと思います。

私のドレミ分析法は、大げさな言い方を赦してもらうならば、神の英知を独りでかすめ取っていくための、中学生用の大技です。ローマ・カトリックは神の代理者として世界に君臨していて、しかし私は彼らのことばに拠らないで、聖書を拠りどころにするようなこともしない、むしろ天界に直接フライバイを仕掛ける深宇宙探査機というところです。近づきすぎると超重力に抗えずに吸い込まれたり、または振りとばされて機体がバラバラになったりするので、そのギリギリを狙って何度も何度も接近しては離れることを繰り返す。(画像はイメージです)


音楽に限らず、この世のあらゆる英知について、自分はそういうスタンスです。そもそも私の知性は世のスタンダードからはかなりかけ離れているようです。それがとても悔しいし、苛立ちます。自分がごく自然に感じることが、まわりの目にはそう映っていなくて、ただのぶしつけ者に見られているんじゃないかっていつもびくびくして生きています。

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