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大本営地下壕行ってきました!

こんにちは。Shunyaです!!


今回は第二次世界大戦において旧陸軍の司令部となった、大本営(日本軍最高統帥機関)の地下壕に行ってきました!!

現在は市ヶ谷に位置する防衛省の敷地内に保管されていますので、予約する必要することで見学可能です。

👇詳しくは、防衛省市谷台ツアーのHPをご参照ください。

https://www.mod.go.jp/j/publication/ichigaya/index.html​


この市谷台ツアーは、主に2つの場所を見学できます。

①「極東国際軍事裁判」、通称「東京裁判」の舞台

を見学できる「市ヶ谷記念館」。開戦時の首相、東条英機大将を含む28名が戦争犯罪人として裁かれた裁判です。

②「大本営地下壕」

大本営(司令部)への空襲に対して備えるための地下壕です。地上の司令部と繋がっており、戦争末期には、ここにいることが多かったとか。


それでは、ひとつひとつ写真と共に説明していきます!



①市ヶ谷記念館

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サックっと市ヶ谷記念館の歴史を説明します。

この建物は、戦時前・中は「旧陸軍士官学校」→「大本営」、

戦後は「東京裁判の舞台」というように激動の時代の中心にいました。

移転に伴い、扉や木の床は極力同じものを再利用しているようです。また、壁なども使える部分は再利用しているようで、完全な別物ではない(部分移転)ようです。


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👆これが東京裁判の講堂となりました。裁判を迎えるにあたってGHQから様々な要請がありました。①照明と②カーペットです。この講堂は基本的に暗いため、裁判の映像記録を撮るとなると、当時のカメラ技術では不都合があったようです。また、カーペットも同様の理由です。木製の床だとカツカツと靴の音がなるため、録音に支障が出ます。しかし、照明に関しては、報道官が「照明地獄」というほどだったそうで、影ができる隙もなかったようです、、また照明が多すぎて暑かったとか、、、(笑)

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👆確かに照明、カーペットが設置されている。

被告として証言している東條英機

👆東京裁判にて証言している東条英機。
A級戦犯として裁かれました。

※🟥戦犯はA,B,Cに分けられましたが、これは罪の重さを表すものではないです。単なるカテゴリーで、イ、ロ、ハなのです。Aが平和に対する罪、Bが通例の戦争犯罪、Cが人道に対する罪。ですから、Cの方がなかなかエグいことやってたりもします。
誤用されがちなのでご留意を!

同証言台

👆実際の証言台。ところで、この赤いランプの形をしたもの、何だか分かりますか?東京裁判では、11ヵ国(もちろん戦勝国のみ)から検察官、裁判官が派遣されました。そのため、通訳が必要です。日本人は、ハッキリとものを言わず、遠まわしに含みを交えて話すことが多々あります。そのため、日本人通訳者(日本人同士、真意がわかる)と外国人通訳者で「訳の違い」が生じました。そこで、訳を審議しているとき赤いランプが光っていたようです。そういうこともあって、なかなか裁判が進まなかったとか、、、



②大本営地下壕

いよいよ大本営です。

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👆この地下壕は「露天掘り」という技法で、一度土を掘る→中にセメンㇳを入れる(鉄筋コンクリート)→土を戻す、というように作られています。それだけでは怪しまれるということで、地上を「日本庭園」に作り替えたそうです。司令部が潰されてはオワリですからね、、

また、もしも空爆を受けたとしても耐えうる構造をしていました。500㎏弾も耐えられる分厚い鉄の扉が設置されていたようです。

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👆地上へ抜ける通気筒がこのようにカモフラージュされています。

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👆地下壕入口。

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👆少し進んだところ。中はかなり広かったです。高さ4メートルくらいあるのではないでしょうか。

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👆柵の中のみ移動できます。(想像より行けなかった、、、)

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👆あの扉跡の向こうを曲がったところには、炊飯場や浴場があったようです。

そこで使った水が写真右下のパイプを通って、トイレの水となっていたとのこと。

当時にしては珍しく「水洗トイレ」だったようです。

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👆向こうの方に陸軍大臣室があったようです。

以上がメインの見学場でした!


私は、沖縄の「海軍司令部壕」にも行ったことがあるのですが、差が相当なものであると感じました。陸軍本部の司令所と、現地の司令所で相当な差がある、これは当たり前のことです。しかし、現地を経験しない限りは、兵士の生死を「数字」としてしか見れないと思います。これは軍の上層部にありがちなことであると考えます。我々、歴史を学ぶ者もそうです。現地では「数字」が増減するのではなく、我々と同じ「人間」が生き死にするのです。「ああ、こんな所で本当に戦争をしていたのか」という実感を伴う追体験というのは現地に足を運ぶことでしか得られません。机上の勉強には限界があり、現場の兵の気持ちは分かりません。行って初めて「少し」は理解できるのです。暖衣飽食の時代に生まれた我々には実感することのできない歴史です。

👇旧海軍司令部壕の画像。是非、沖縄を訪れた際に足を運んでみてください。空港からのアクセスも良いです。




・上記以外にも色々見れます!

防衛省といえばこの建物!幕僚らはここに務めているようです。

日本国の防衛の中枢ですね。

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・栗林中将

硫黄島の戦いで、指揮官たる才能を最大に発揮し、後世に語られる名指揮官となった栗林中将。映画『硫黄島からの手紙』でもその人柄が良く反映されていると思います。彼は「3日で落とせる」とされていた硫黄島の戦いを5週間にも渡り「徹底持久」しました。彼は、指揮官でありながら皆と同じ食事をし、またむやみな突撃「玉砕」を禁じました。そして、敵が上陸してから攻撃することで兵力の消耗を抑えました。その結果、ミッドウェー以降における戦闘で、硫黄島の戦いが唯一、「米軍の損耗が日本軍を上回った」戦いとなっています。

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👆襟の階級章が「大将」となっています。袖の階級章は「中将」です。これは世界にひとつしかない栗林中将が大将として写っている写真です。戦地に赴くと、昇級ししても写真が撮れなかったりするため、このような写真が撮られたのです。大変貴重です。

👇栗林中将の「硫黄島からの手紙」。当時、絵を描ける者は少なかったため、その教養の高さが伺えます。また、栗林中将の遺品はこれだけとなっており、遺骨も見つかっていません。

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👇画手紙。

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・明治時代からの軍服が展示。

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・ヘリの展示

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いかがだったでしょうか!

市ヶ谷台ツアーでは、日本の歴史について様々な角度から学べると思います。

過去の歴史、そして今の防衛省を見ることで得られるものがきっとあるはずです。是非参加してみて下さい!!


本日は読んでいただきたいありがとうございました!!


今日も明日も、良い一日をお過ごしください!!!

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