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今更だけど、なぜ認知症カフェなのか

 てっきり私はあちらこちらに書いていると思っていた、ブログやらnoteやらに。そして今回とある人から尋ねられて、色々漁って見つからず、気づいたのだ。明確な文章としては残していなかったことに。

 始まりは今となっては仕事を辞めて当初からの課題、認知症のあれこれを学んでみようと思い始めた頃、そして2016年夏認知症キャラバン・メイトの研修を受け、2017年夏に認知症サポーター養成講座を最初に開催し、その時に初めて私は言葉にした、そのことをブログで気づいたのだ。
 ではなぜ、と思い返せば、2018年が私が参加した最初だったようだが、「認知症カフェほっともっと」という年一のイベントが横浜で行われていて、私は2018年、2019年と2回ボランティアとして参加したことがこの言葉を知った最初かもしれない。その後のコロナ禍でイベントは中止になって今に至っているのだが。
 そのイベントでは既に認知症カフェを開設している人たちや準備している人たち、どういう形で運営しているかのお話やら実践例やら、すごく学べる場で、受付対応してそれが終わったら会場内で参加できるということで、知り合いも増えた。認知症カフェという言葉の意味をある程度理解できたのもこの時だと思う。

 なんてことはある意味二の次、なぜ認知症カフェだったのか?
問を投げかけた人は「原体験」という言葉を使っていた、ふむこれまた難しいが。
 始まりは私が現役時代の頃からほぼ確定的に将来は認知症になるだろうと思っているからだ。
 そして仕事を辞め平日も街で過ごすようになったその時、今の街に私が顔を出したい、時折おしゃべりできたら嬉しいかも?と思える場がほぼない!という現実があったからだ。それはこれから確実に老いていき、その先多分認知症になった自分ならなおさらのことだろうと。
 で、ないなら創ってみよう!と思い立ったのは2017年頃だ。そして上に書いたイベントやその後の幾つか、コミュニティカフェ設立講座やケアラーズカフェの講座などに参加していくことになった。

 ところで2015年に仕事を辞めた理由の幾つかの中に、母が亡くなった時の後悔やら認知症だろうと思われた叔母の支援だったり、叔父の老いも気がかりだったりした訳だが、一番懸念していた叔母の認知症は思ったよりも進行しており翌年早々には連絡が取れなくなり(一緒に買ったスマホはほぼ使うことなく部屋に放置されていた)、その夏には街なかで倒れて緊急搬送され、そのまま自宅には帰れず施設入所となってしまった。その事実は私をひどく怖がらせた。
 彼女はひきこもりのように自宅に閉じこもり、誰ともつながることなく、結果病は進行してしまったらしい。もし彼女が自らの変化に不安を感じた時、気軽に話せる人が近くにいたら、ちょっと出かけておしゃべりできる場があったら、もう少し違った最終章が待っていたのではないか、そんな想いが湧いた。
 介護保険制度は不十分とはいえ整えられている、地域包括支援センターも各所に存在している、民生委員もいる、町内会の存在もある、表向きはそれで由となっている。けれど実際は、認知症に対する偏見や思い込みはなかなか減らない、認知症と診断されればひとりふたりと友人が減っていく、いや、ちょっとおかしくない彼女?、と思われただけで知り合いは消えていく、そんな世界が実際にはまだある。

 だからこそ、私が今も続けている月イチの集まりは、そんなこんなも含めて月に一度でも会って何か学んで、自分のことを話せて、ホッとしたり嬉しくなったり楽しくなったり、そんな場としてあるように心がけている。
当初は、もう少し狭い範囲を想定していたし、その場が最終的には認知症カフェに移行できたら、と考えていた。介護者が当事者も連れておしゃべりしに来る、的な。
 でも今はテーマを揚げて一定の形で進行していく、そういう集まりで続けていこうと考えている。その理由は病気の不安や老いへの恐れ、介護のこと、などありながらも今は日常を送れているそういう時から知り合うことの大切さを実感しているからだ。
 そしてその場の延長線上に、認知症カフェがあったら良いのではないかな、と思っている。

 当初私が考えていた認知症カフェは、介護者+認知症当事者を基本に描いていた。だからこそ専門職的な知識が必要だと思って勉強もし資格も取得した。だけど今そんなカテゴライズは不要だと考えている。もちろん、少しは知識を身につけた人がそこには居るということは大切だとは思っているが。
 来たい人が来てくれればいい、その人が介護者なのか、自分の今が不安なのか、それとも知り合いが認知症で気がかりなのか、認知症と診断されたばかりか、長く認知症と付き合っているのか、来てくれる人がそこの場でちょっと弱音を吐けたり、本音を言えたり、不安な気持ちを吐露できたり、まずはそんな場になったら良いのかな、と思う。

 小さい場で小さい集まりを!最近そんな言葉を使い始めた。決して大きな場を借りて最低10名集まりたい、なんて気持ちはない。徹頭徹尾自分事、そしてその延長線、ちょとした心配事、気持ちの晴れないこと、そんなことを意識せずに声に出せる場としてのカフェ、を考えている。もう少し、概要的な話は、「認知症カフェ(仮)」開設まで、で書いていくつもりだ。




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