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「イタさ」は時に自分を救う

最近、感覚で見ることが減ったように感じる。
言葉が出てこない。あんなにポンポン出ていたイタフレーズが出てこない。
何故だろうと考えた。思えば12月あたりからだろうか。一時期は雪と一緒に降ってきていたがそれきり殆ど出てこない。
なぜ12月からなのか。そう考えた時にこれが原因か?と思うものが1つ出てきた。

『慣れ』だ。環境への慣れ。

私は新しい環境に慣れるまでにかなりの時間を費やす。かなり観察の時間が必要なのだ。22年生きてきて判明した私の弱点である。
慣れるということはいいことなのでは?と思えるが少し違う。

私の場合、ストレス発散方法が暴飲暴食とイタフレーズによる言語化なのだ。
それだけではない。イタフレーズは趣味としての役割も果たしている。
こんなイタ文を読んでくれている人がいるという事実が分かってしまったのだから、noteには本当に感謝しかない。

つまり、私にとってイタさとはあまりに強大で柔軟な、それでいて鏡の役割を果たしてくれる依存先であり、中途半端な慣れは痛フレーズ誕生を中途半端に邪魔してくるのだ。
うわぁ、何も思い浮かばない。つまらないなあ。そうだ、この何も思い浮かばないようという今を文字化してみよう。
と思いたったが最後。気付けばこんなふうに次から次へと出てくる。
需要0?需要は世界中のあらゆる本が担ってくれているからそんなの気にしてられない。
そもそもそんなの気に留められるのは言葉で生活している人物だけだろう。
だからそんなの気にしなくてよし。好きなように好きな形で自分の中身を吐き出せば良い。
それにこんな文章を書いている自分に「やるやん」と思えるナルシスト。嫌悪感すら覚える自己愛。ネガティブ思考で悩んでいる人は是非見習って欲しい。

自己肯定感を上げるには第三者からの評価が1番最高効率で効果覿面だが、そうまでしないと上がらない、大嫌いな自分自身がいなければ自己肯定感なんて概念すら存在しないことを分かってあげて欲しい。
自分に起こる嬉しい出来事、悲しい出来事、他人への嫉妬、抑えられない欲望、これらは全て自分が存在している証明なのだ。

かく言う私のイタ不足もそれだ。私が存在していなければこんなことで悩むことなんてない。そう。失敗や遅れ、自分で感じる変化、それら全てはもしかすると、何かで霞み始めた自分のことを再認識しろよという自分自身からの鞭なのかもしれない。
その鞭に打たれ走り出す自分でいたいと思う。
競馬のようだが、この世なんて競馬と同じだろう。いつでも誰でもどこかで誰かと競争しているのだから。
競争は嫌いな私も気付けば他人との比較をしていることなんてZARA。
馬畜生と思っていても、実のところ競争させているのは人間であり、馬の方がよっぽどクールである。

だからもっと人間らしく生きていこうと思う。間も無く22歳も終わりに近づいてきている。
いい加減かっこつけるのは好きな人の前だけにして、日常では人間らしく汚く生きていこうと思う。

よし、イタさも戻ってきたところで終えよう。
これ以上進むとイタ圧に耐えられない者が出てくる。
因みにこの段階で耐えられてない人は出直してきてください。

イタく(居たく)生きよう。

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