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【意訳】グリッチ&&人間/コンピューターの相互作用

Clip source: Non-Object Oriented Art

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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Glitch && Human/Computer Interaction

Daniel Temkin, 2014

Ceci n’est pas une glitch  by the author (2010)Glitch && Human/Computer Interaction

グリッチアートは、コンピューターエラーを究極のミューズ(勝利の女神)として、あるいは最も強力なツールとして神話化する。
グリッチの美学はコンピューターの機能不全時の見た目を起源としているかもしれない。だがそれが作家的実践となった場合、グリッチアートにはグリッチがほとんど存在しない。

もちろん、グリッチアーティストの中には作品を生み出すためのバグを実際に探究している者もいる。だが彼らの手法を正確に説明するならば、ほとんどの場合はノイジーなデータをしっかりと機能するアルゴリズムに突っ込んでいるか、アルゴリズムを型破りな方法で使っているのだ。

だがこれは、我々が考える通常のアルゴリズミック・アートではない──発狂したジェネレーティブ・アート、と呼ぶべき形式である。ゾンビ・アルゴリズムは普段の用途が奪い取られている。あるいは、明確な目的もなく構築されている。
奇妙な新しいパターンを生み出したり、本来の設計者が予期していなかった作用を暴くためにデータをいじくるのだ。

この方向性でグリッチアートにアプローチすると、それは我々と機械との間で交わされる対話の研究となる──我々はどの様にロジカルなシステムと関係していくのか?人間の思考とコンピューターのロジックの間に破綻が生じたら何が起こるのか?
本稿ではこのような、グリッチアートにおけるアルゴリズム的問題に焦点を絞る。それでは、グリッチの無いグリッチを見ていこう。

from Postcards From Google Earth by Clement Valla (2011)

“よく見ると、この状況はとても興味深いものだと気付きました。イメージはグリッチではないのです。それらは完全に、システムが論理的に出力したものでした。”

クレメント・ヴァラ[1]

アルゴリズミック・アートとしてのグリッチ

ヒュー・マノンと私は “Notes on Glitch” の中で、“それは意図的な機能不全であり、バッド・データをぶつけてプログラムを完全に失敗させ、グリッチを見えるようにすること” だと書いた。
だがここでは、そのバッド・データとは何なのか、プログラムの失敗(あるいは失敗のための失敗)とは何なのかを吟味したい。
例えば、私がJPEGコラプション(JPEG corruption)と呼ばれる基礎的なグリッチ手法を使うとする。データモッシングワードパッド・エフェクトといった、その他の一般的なテクニックも同様に使ってよいのだが。

テッド・デイヴィスの FFD8というプロジェクト[2] は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付与した画像をFlickrからランダムに読み込み、その裏側にあるデータを可視化(16進数の生データを表示)する。
我々はそのデータのバイト(ここで言うバイトとは、隣り合った2つの16進数)を選択できる。そしてイメージ全体からその数値を探し、全て別のものに入れ替えてしまう。

例えば、全ての “DF"を"1A"に入れ替えるのだ。結果としてそのイメージは、データが差し替えられることでグリッチ的な見た目になる。

画像の背後にあるコードを可視化することで、この作品をグリッチアートとして認識しやすくなる。その生データは、ハックするために我々に提示されている──我々の多くがこの様に、イメージデータを16進数エディタで直接めちゃくちゃにすることからグリッチアートを始めている。それも手探り状態で、あるいはグリッチのチュートリアルを参考にしたり、ファイルフォーマットに関する古の資料を読みながら。

この壊れたJPEGは、グリッチの美学において最も分かりやすい見た目をしている。ベン・サイヴァーソンのSatromizerでは、JPEGデータの触れた箇所のデータをバイトのレベルで入れ替えている。この方法でJPEGデータを入れ替えると、その場所から連続的な変化が起きる。

JPEGは単なるファイルフォーマットではなく、イメージデータを圧縮・解凍するアルゴリズムだ。(事実、このファイルフォーマットはJPEG JFIFと呼ばれていた。)
JPEGの特徴的な崩壊の見た目が生まれるのは、そのデータの位置を1ピクセルずつ記録するのではなく、配列の中に分散して記録しているため、我々の加える変更(エラー)も分散されからだ。我々は実際に、文字通りの意味で画像を“破壊”しているのではない。構造的なダメージは何も与えていないのだ。

完全に破綻に成功すると画像はこうなる

プログラムにおいて“バッド・データ”と“失敗”とは何なのか、という問いに戻ろう。今までの文脈で言うならば、機械にとっては良いデータも悪いデータも同じである。
イメージが具象的か、データ操作によって抽象的になっているかなど、機械は気にしない。我々がまだ画像を見れているのなら、そのJPEGアルゴリズムはイメージの描画に成功している。

何かの原因で画像ファイルが表示不可能になった時でさえ、我々は失敗するリスクがない(FFD8はそのエラーの原因となるピクセルデータを隠すことで保護している)──デジタルデータを複製・保存するのは簡単なので、それさえやっておけばリスクなど無い。
そのデータは我々にとって“悪い”だけであり、それも具象的な画像を期待しているときだけの話だ。

我々はJPEGのアルゴリズムを壊しているというよりも、美的なものの製造へと目的を変えているのだ。ノイジーで、より混沌としたその“ダーティ・ニューメディア”[3] は、画像とJPEGのデータ圧縮形式が持つデジタル的特徴を明らかにするのだ。

グリッチアートは、コンピューターが出力した画像の読解可能性や品質には無関係な装置であると強調する。その形式の押し引きは破損や失敗のリスクから行われるのではなく、予測不可能なシステム、機械とのコラボレーションに画像を委ねることで生まれている。

Hiroshi Kawano, Design 2-1, Markov Chain Pattern (1964)
Jeff Donaldson, panasonic wj-mx12 video feedback (2012)

カワノは数学的システムであるマルコフ連鎖を利用してパターンを生成する。ジェフ・ドナルドソンはビデオミキサーの出力プラグを入力に繋ぎ、フィードバックによってノイズの歪みを増幅させる

機械の野生性

もうひとつの一般的なグリッチ手法がソニフィケーションだ。この手法は、お互いのアルゴリズムを往復させることで、その押し引きをより明確にしている。
ソニフィケーションは、画像データをオーディオツールを使って変化させる行為だ。オーディオエディターで画像を開き、サウンドエフェクトを足して画像を歪めたり破壊するのだ。
我々はグリッチアートのエントロピーについてよく話すが、もしもオーディオエフェクトによる画像の変化をエントロピーで全て説明できるとしたら、エフェクトを追加し続けると、その画像は何も表していないグレーの霧へと崩壊するまで混沌としていくだろう。

ソニフィケーション:サウンドエディタで作業をしていると、すぐに画像を見ることはできないが、波形を手がかりに変更がどんな影響を与えているのか判断できる

だが実際には、エフェクトを追加し続けると、元々の画像とはほとんど関係ない新しいかたちがイメージの中に形成されていく。その模様は音声のロジックで生成されたものだ。
ディレイ・エフェクトは形を歪ませる傾向にあり、その時間の長さに応じて歪みも長くなったり短くなったりする。また、左右にパンニングすると画像がズレて、ピクセルサイズの縞模様が生まれる。

ソニフィケーションで作業する際には、機械がどのようにデータに干渉するか、というメタ知識が無くても編集できてしまう利点がある。英語の文章をデンマーク語のルールで並び替えるようなものだ。(デンマーク語は英語に似ている上に、より単純)

それぞれのオーディオ・エフェクトは道具である。“自分の心を持った、とても鈍いブラシ”とカート・クロニンガーは表現している。
この不確実性が、グリッチ制作をエキサイティングなものにしてくれる──我々は偶然にコントロールを委ねるのではなく、独自のパターンを持ったシステムに委ねるのだ。

ローザ・メンクマンが2010年に投稿したブログ、“glitches vs glitch art[4] (元々は彼女のグリッチに関するマニフェストである)で彼女はこう述べている。“グリッチをデザインするということは、それを飼い慣らすことを意味する。グリッチが家畜化され、人間が作ったツールやテクノロジーでコントロールされるとその魅力は失われ、意外性も無くなっていく。”

この定義は、“家畜化されたグリッチ”という言葉が何度か出てくることからも、グリッチの生成とグリッチの発見を対比している訳ではないだろう。むしろ、飼い慣らされていない精神を持つ野生的グリッチプロセスの使用と、Photoshopのフィルターのようにコントロール可能な機能を対比しているのだ。

そのブラシに心を与えるには、我々が完全には理解できない、あるいは予測不可能なほどに複雑なシステムを使って、制作の主導権を機械と共有しなければならない。
こういったグリッチは、ジェネレーティブ・アートの生成と同質である。アーティストが入力した以上のものが出力されるレベルの複雑さに到達しているのだ。[5] 

我々にとって機械とは、論理システムと直接向き合う場所である。ソル・ルウィットなどのコンセプチュアル・アーティストは、いくつかの単純なルールを持った論理システムにコントロールを委ねるだけでも、すぐに不合理な状況を生み出せると示していた。

“思考体系が狂っていることが、人間の基本的な状態です” とルウィットは語る。人間という存在がいかに論理的思考が下手で、また論理的思考そのものがいかに奇妙であるか、コンピューターは我々にいつも思い知らせる。
論理的思考のクラッシュを見たいならば、人間の思考をコンピューター・ロジックへと直接翻訳する場所へ目を向けるべきだ──コードを書く行為である。

難解プログラミング言語(esolangs)は、プログラマー達によって開拓された芸術様式である。そのプログラミング言語は“司令と操作から、文化的表現や拒絶へと観点をシフトしてる。”[6] 
その言語の中でも最も悪名高い Brainfuck は、機械の信頼度を不安定にする。極めて簡潔なロジックをプログラマーに提供しているのだが、人間的表現とアセンブリ・コードの間にある境界線を除去しようとしていないので、我々は馬鹿げた論理的行程を取ることになる。

Brainfuck はミニマルなプログラミング言語で、コンパイラーが認識できるのは8つの文字しかない。“print”などの文字を使って機械に司令を出す代わりに、句読点だけを使うのである。brainfuck の単純さが、その使用方法を極めて複雑にするのだ。

そこには32という数字を表すシンボルがない。なのでプログラマーはメモリーをセルごとに行ったり来たりして、その数字を保存するための場所を探し、プラスとマイナスの記号を使ってメモリ空間が32へ到達するまで増やすか減らすかしなければならない。32という数字は突如として定数ではなくなり、プログラム上の戦略を要求するリソースになるのだ。

32は、4の足し算を8回ループさせれば生み出せる。あるいは正しい数値に到達するまでカウントダウンするかだ。(各バイトは最大で256ある。)0になるまでカウントダウンしたあと、それを何回か繰り返す必要があるだろう。プログラマーは、32という数字を仰々しい文体で書くことになる。

機械の狂気に触れるもうひとつの方法が、データの唯物論的探究だ。アルゴリズムが認識していない、データの中にある理解不可能な潜在的パターンに触れるのだ。そういった唯物論者的作業に着目した作品に、コーリー・アーキャンジェルのData Diaries [7] がある。
この作品はデータ考古学的に振る舞うが、その描画は内容を解説するためではなく、ただ単に狂気的なパターンを生み出すためにおこなわれる。

コーリーはこれを“窒息しながら叫んでいるコンピューターを見る行為” と説明する。同様に、LoVidの作品 486 Shorts [9] は、文字通りに486のビデオカードをショートさせ、コンピューターに超飽和状態の幻覚を生み出させる。

これらは、クルト・シュヴィッタースのUrsonate などの作品を連想させる。この高度に構築された音声作品の持つ意味は覆い隠されているが、そこには異質な論理パターンが息づいている。

最後に、ポール・ヘルツの GlitchSort [10] とキム・アセンドルフの  PixelSort [11] が利用しているソーティング・アルゴリズムを見ていこう。(学校のプログラミング実習で覚えている人も多いだろう。) 彼らはソーティング・アルゴリズムでピクセルを並び替えて、視覚的魅力のある画像を生み出している。

競合する両者の処理スクリプトは、どちらもピクセルをリソースとしてキャプチャし、まさしく強制的にソート(整列)の司令をおこなう。
だが、どちらも途中で処理が中断されてしまうため、その視覚効果は(アセンドルフ作品のように)オブジェクトが溶けている感じになるか、(ヘルツ作品のように)奇妙な模様を生み出すことになる。

どちらのスクリプトも、機械の持つ強制的な厳密さと、そのプロセスのロジックの異質さを強調する。
生み出された視覚的グリッチが最初の画像にどれだけ依存しているかどうかは、この作品にとって関係ない。

しかし、機械の野生性に関する探究を前進させたり、人間的ロジックを新しい視覚領域へと押し上げる新しい作品が作られていけば、おそらくグリッチそのものは視覚的アイデアとして重要ではなくなっていき、人間・機械の相互作用に関する実験の歴史の中へと組み込まれていくだろう。


[1] Clement Valla, “The Universal Texture,” Rhizome (2012) http://rhizome.org/editorial/2012/jul/31/universal-texture/ 

[4] Rosa Menkman, “glitches vs glitch art,” 4/19/2010, http://rosa-menkman.blogspot.com/2010/04/glitches-vs-glitch-art.html 

[5] Gordon Monro, “The Concept of Emergence in Generative Art” http://www.gommog.com/archive/docs/MMus_Essay.pdf 

[6] Geoff Cox, “Speaking Code,” p.5, MIT Press, © 2013

[7] Cory Arcangel, “Data Diaries,”  http://www.turbulence.org/Works/arcangel/ 

[8] Alex Galloway, Turbulence.org, http://www.turbulence.org/Works/arcangel/alex.php 

[9] LoVid, 486 Shorts, http://www.lovid.org/works/486/ 

[10] Paul Hertz, GlitchSort, http://paulhertz.net/factory/2012/08/glitchsort2/ 

[11] Kim Asendorf, Pixel Sort, https://github.com/kimasendorf/ASDFPixelSort 

01/15/14


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