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フォームを破壊するマテリアル:髙橋大輔の絵画と作風の変化

画家、高橋大輔の個展『RELAXIN’』が、長谷川新をキュレーションに迎えたプロジェクト『約束の凝集』の最終回としてgallery αMで2021/10/02より開催中だ。今回の展示ではタイトル通り従来の作風を崩し、肩の力の抜けたスタイルの作品群を発表している。
多くの画家は、一度独自の方法論を確立すればそこに留まってじっくりと向き合い続けるが、高橋は過去作と全く異なるタイプの技法や方法論へと貪欲に手を伸ばしている。
あまりに多種多様な作品が展示されているため全てに触れることはできないが、幾つかの作品を取り上げて高橋作品の特徴とその作風の拡がり方の特殊性について考えてみたい。

無題(B・上・G)2013-2014

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本展には一点だけ、高橋作品において最も有名なスタイルで描かれた旧作、無題(B・上・G)2013-2014 が展示されている。その厚塗りの絵画では、画面の『深み』の生み出し方が反転している。
支持体からはみ出すほど厚盛りの絵具を何層も重ねた物質的な立体感が、具象画において描かれる仮想的な奥行き(イリュージョン)を代用しているのだ。
その表面には手仕事の跡が強く残る。表層の隙間からは全く違う塗り方を重ねた下層が見え、方向性を模索しながら時間を掛けて画面を構築していった過程が読み取れる。そこに複雑に混ざりあった色彩、絵具が乾燥した際のシワ、ツヤの有無といった有機的な質感が加わる。
比較的小型でありながら見どころが詰まっており、間近に接近して細部をじっくりと鑑賞したくなる、強い吸引力を持った絵画である。

この象徴的なスタイルによって高橋の作風はすでに確立されているが、彼はそこで立ち止まらずに様々な絵画のあり方を模索し続けている。
井上有一やマティスといった巨匠の作品だけでなく、一円玉に描かれた若木マーク、子供のトラのおもちゃ、近所のビルの色彩などなど、生活の中で見つけた気になるもの、良いと思ったものから無差別に制作のヒントを受け取り、作品に反映しているようだ。

作品形式の変化

数年前より、高橋作品には画面がはっきりと2層に分かれた作品が登場し始めている。厚塗りした絵具を支持体のように扱っているのだ。
乾燥した厚塗りの画面、あるいは塗ったばかりの不安定な絵具の層の上に線を乗せており、抽象画の上に具象画やドローイングが描かれているかのようだ。
特に未乾燥の絵具に絵を描いた作品は、筆で絵具を乗せると同時に支持体の厚い絵具の層をこそぎ取っており、描画と彫刻、足し算と引き算が同時に行われているような不思議な手触りのストロークを生み出している。

だが今回展示されている無題(パイナップル/光あれ!)2021 において、高橋はそういった多層構造を重視した技法から大きく飛躍し、画面の深みを完全に手放している。

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巨大な画面に、あっという間に描き終わってしまいそうなシンプルな線が置かれたドローイング的絵画だ。
当然ながら鑑賞の質も旧作とは全く異なる。今までは視覚的に鑑賞者を画面に惹きつけていたが、本作は「これはなんだろう?」と疑問を持たせ、興味を惹きつける。
線が比較的くっきりしているためピントを合わせ易く、遠くから足を止めて鑑賞することが可能だ。そもそも作品の足元にはドローイングが敷き詰められており、鑑賞者は遠くから眺めるしかない。このもどかしさも、つい画面を見続けてしまう要因のひとつである。
画面の右下に丸が描かれ、その中に格子状の線が引かれているが、人の顔にも、メロンパンにも、ボールにも見える。タイトルから実際にはこれがパイナップルだと分かるが、視覚的な情報から正解を導き出すにはヒントが少なすぎる。

だが絵画としてはこれで良いのだ。このイメージははっきりとモチーフを象徴せず、ただそこにある。鑑賞者がどう受け取るのかは大した問題ではない。ごく単純なイメージが、その極端な単純さゆえに鑑賞者の想像を引き出し、画面の前で足を止めさせてしまう。この視覚言語の妙こそが本作において重要なのである。
厚塗りの旧作と真逆の性質を持ったこの作品が、それでも視覚芸術としてしっかり機能していることは、絵画という表現形式の自由度の高さの証明でもある。

フォーマリストに見えるほどのマテリアリスト

高橋は自身の絵画形式を継続的に変化・拡張させているため、キャリアを俯瞰するとフォーマリスト(形式主義)的にも見える。しかしこの展示を鑑賞し、添えられたテキスト読めば分かるが、その認識は間違っている。
普通のフォーマリストなら河川を整備するように、進むべき新しい作風を計画的に開発していくはずだろう。感覚的な要素はその形式内に収められ、画材はルールに基づいて制御される。

だが高橋はもっと身体的・感覚的で、画材の質感を重視しており、気になるもの全てを絵画の題材にしてしまう──あらゆる意味でマテリアル(素材・題材・感覚)重視の画家だ。
ゆえに彼の作風の変化は、氾濫した水が既存の流路を乗り越え、地形を破壊しながら新しい流路を生み出すように自然発生しているのではないか。
生活の変化・人生における大きな出来事・価値観の更新・新しい発見などによって既存の絵画形式に収められない“マテリアル”を手にしたとき、“マテリアル”自身が古い形式を破壊しながら溢れ出し、新しい形式を強引に形成し始めるのかもしれない。それは高橋の旧作において、矩形の支持体からこぼれ落ちそうなほど過剰に盛られた絵具(マテリアル)が、絵画の輪郭線を複雑に歪めている事とも類似する。

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“自分らしさ”という形式さえ拒否するのなら、常に変化を求めて絵画形式と格闘し続けることになる。結果的に形式主義的にすら見えるキャリアを歩むのだと思うと興味深い。
Relaxin'(リラックス・緩和)というタイトルとは裏腹に、愚直なまでの真摯な姿勢が透けて見える本展。作品を楽しむだけでなく、画家のキャリアと実践の重ね方についても考えさせられた。



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