【意訳】ブリンキー・パレルモとは何者か
クリップソース: Blinky Palermo | | Flash Art
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Blinky Palermo by Vanessa Joan Müller
April 25, 2016
ブリンキー・パレルモは戦後美術においてほとんど神話的な存在だ。彼の人生、先駆的な作品、60年代にしては時代錯誤なモダニスト的作風がその要因である。
時代を席巻していた抽象表現主義に陰りが見え始めていた頃、パレルモはマーク・ロスコとバーネット・ニューマンの絵画に魅了された。その精神的作品の流行は長く続かないと思われていたが、彼はそれに従事する姿勢をとった。ベンジャミン・H・D・ブクローはパレルモを、“もはや空想に耽っていられない時代における破滅的な空想家”と評している。
パレルモが残した作品群は少ない。その大きな理由は、彼が33歳で早すぎる死を遂げたからである。彼は寡黙かつ献身的で──アートに対して使い古された言葉かもしれないが、なにか詩的な印象を与える作品を制作した。パレルモは具象からは程遠いが、完全に抽象的とも言えないアーティストだ。彼の友人作家、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、イミ・クナーベルたちとは対象的に彼はすぐに絵画を諦め、ただ絵具とブラシを使うのを超えて、絵画の本質の追求をより過激に実践した。
また彼は、アーティストとしてのイメージを構築するというアイデアにも取り組んだ。(少なくとも噂によれば、)ヨーゼフ・ボイスが彼を有名マフィアでありボクシング興行師のブリンキー・パレルモに似ていると言ったことから、そのマフィアの名前を取ったのだ。
彼の本名はぺーター・シュヴェルツェだが、1943年にライプツィヒで生まれてすぐに養子に出され、ペーター・ハイスターカンプとして戸籍登録されている。
1962年、18歳の時にデュッセルドルフ美術大学に入学して絵画を2年間学んだ後、彼はヨーゼフ・ボイスの元で学ぼうと決めた。だがパレルモ自身の作品は様々な面でそのカリスマ教師と相反していた。脂肪や蜜蝋といった有機的素材、およびノルウェーのアニミズム的神話の遺物に執着したボイスと異なり、パレルモ作品は戦後西ドイツの日常的な美意識に深く根ざしたものであった。
画家として有名以上の存在となっていったアーティスト仲間達と比べるとパレルモはキャンバスをほとんど使わなくなったが、それにも係わらず 絵画の伝統と直接的に繋がっていたのは重要な点だ。
20歳の頃、彼は有名なカジミール・マレーヴィチのモチーフを新しい構図へと再解釈したが、それはその後の作品において極めて重要であった。1964年の Komposition mit acht roten Rechtecken [Composition with eight red right angles] は白い背景の上に鮮やかな色の矩形を凧のように並べた作品で、マレーヴィチ作品における長方形状に連続したモチーフを、無作為に散らばった破片のように変えている。
それからほんの数ヶ月後、パレルモは画面に絵具を塗るのとは完全に異なる新しいフォーマットを見つける。形象の代わりに素材を用いて、その物質に宿る抽象的な概念を体現させたのだ。つまり絵画はオブジェクト、あるいは絵画的性質を備えたオブジェクトになった。
パレルモは抽象表現とミニマリズムを独自の視覚言語の形式へと翻訳した。それは分類や理論的な分断に抵抗する形式だ。彼のStoffbilder [cloth pictures] は1966年から1972年に始められたシリーズで、絵画と彫刻の原理が融合した結果、絵画的要素はカラフルな布に変えられている。その作品の多くは、色調や画面内部の色面分割からエルズワース・ケリーや後期マーク・ロスコ作品を思わせる。だがパレルモ作品は基本的に、地元のデパートで買ったコットンの生地を水平な構図へと縫い合わせただけである。
その色彩はとても60年代的スタイルだ。飽和した暗い青、鮮やかなオレンジ、淡いピンク。パレルモはその時代のファンキーなファッション向けの生地を素晴らしいモダニスト絵画に変え、ひとつの色がまた別の色によって意味付けされることを示した。その縫い合わされた一枚の布を木枠に平坦に張って壁に架けると、自然と鮮やかに見えるのだ。
色はエネルギーとなり、素材が持つ実際の色よりも印象的になる。印刷物を見るだけでは、その絵画に絵具が使われていないと気付くのは難しい。実物を観る場合ですら、このパレルモ作品の重要な特徴と細部を感じ取るには近づいて見る必要がある。
エルズワース・ケリーの構図は自信に満ちているように感じられるが、パレルモの布絵画は繊細で、ほとんど非物質的に感じられる。全体を見ると物質的な存在感があるのだが、色彩の組み合わせとしては掴みどころがないのだ。
この両義的な素材感がパレルモの全作品を特別なものにしている。彼は絵画形式に対する作家独自のコンセプトよりも、美に対する思考様式が特徴的なのだ。形式的にはぶっきらぼうであるのに、我々の感情に訴えかけてくるものがある。
Schmetterling [Butterfly] や Leisesprecher [Quiet Speaker]といったタイトルは、壁の上を漂う蝶やかすかに聴こえる音、といった繊細な現実を参照していると示唆する。 Leisesprecher は赤い布を張ったキャンバスの上に、それより大きな同じ布を張らずに架けたものだ。その色と形が生み出す空間は注意深く調整されている。
もう一方のSchmetterlingは物質的だ。グレーの円盤、棒、緑の三角形だけだが、個々の描写が衝突することで、その彫刻的作品たちが潜在的に持っている固有のエネルギーがより強く発揮されている。
出入口の上部の梁に飾るために設計された、木を支持体とした小さな三角形の絵画や、切り刻んだ後に絵具で塗られたブリコラージュ作品もある。これらの形状は幾何学的でも有機的でもない。モダニズムの良く知られた技法の再演ではあるが、手作り感が維持されており、技術的に完璧すぎる印象は回避されている。人体比率も参照しながら慎重に空間に配置されたこれらの作品は、壁面をリズミカルな各要素へと分割する。
Blaue Scheibe und Stab [Blue Disc and Stick]は、鮮やかな青のビニールテープで巻かれた縦長の角材と小さな木の円盤を、何気なく壁に立て掛けた作品で、まるで “私を見て!”と言っているかのようだ。パレルモの印象的な実験は、建築や空間との親和性を持つかたちへの関心によって実践されているのだ。
アメリカで制作された金属板絵画は、場所と時間を明確に参照している。Coney Island、Wooster Street、Times of the Day──これらの作品は連続的に配置構成されることで関係性を帯びる。パレルモは1973年から1976年に掛けて2年半ほどNYで暮らした。彼の移住には様々な理由があった。彼のアメリカ戦後美術、特にニューマンとロスコに対する強い関心、ジャズへの愛、あるいはアーティストとしてのインスピレーションを探すため、などだ。
そのアルミ板に描かれた小さなアクリル絵具絵画はNYで製作された。個々の構成要素が持つ物質性を強調するため、様々な形式と工夫が用いられている。この組作品は彼にとって、アメリカのミニマリスト絵画を導入すると同時に反抗した結果生まれたものだ。彼は色彩を建築的な構成要素として使用している。
この金属絵画のスペシフィック・オブジェクト的性質は、アルミ板に何層も重ねられた絵具が生み出している。この組作品はひとつの視点では把握できないので、鑑賞者は動き回る必要がある。ブルース・ナウマンの身体のサイズに対する興味、および作品と身体の相互作用への関心について考えれば、こういったパレルモの“アメリカ的作品”を特徴付けている精神をより理解しやすくなるだろう。
この組作品が、彼のあまりに短い作家のキャリアの終着点であると考えるなら、パレルモの作品がどの様に開拓されていったのか分かるので興味深い。ほとんど伝統的と言える絵画から始まり、その直後に手仕事の痕跡を強く残すオブジェクトを作り始める。そして手仕事の跡を消して単色の布を使った絵画や壁画へと代わり、続いて金属板の絵画が登場する。
パレルモ本人は、これらの期間ごとに作品をグループ分けして展示することを好んだ。1973年にメンヒェングラートバッハにあるアプタイベルク美術館で開催されたパレルモの個展では、オブジェクト的な作品だけを展示した。1974年のミュンヘンのアートスペースでは、ドローイング以外は何も展示しなかった。1975年にレバークーゼンにあるモースブロイヒ博物館で開催した個展では版画作品に集中した一方で、翌年に招待されたサンパウロ・ビエンナーレでは金属板絵画を展示している。
彼は個々の作品と展示がアンサンブルを生み出すような組み合わせを生み出していたが、それはより建築的文脈を尊重した方法論であった。
パレルモはメンヒェングラートバッハでの展示のために幾つかの異なるコレクションから40点のオブジェクトを取り寄せた。結果的に架けられたのはたった13点だったが、その連続的構成を持つ配置は、展示壁面を作品の構成要素へと昇華させていた。
彼の空間的思考が最も顕著に現れているのは、ギャラリーや美術施設の壁面に直接制作される作品だ。
例えばパレルモは1970年の展示 “Strategy: Get Arts”の際に、エディンバラ・アートカレッジのメイン階段を囲っているアーキトレーヴに青・黄・白・赤の水平な色の帯を描いた。彼のほとんどの in situ(イン・シチュ:状況適応)系作品と同様に、この色の帯は会期終了後すぐに塗り潰されてしまった。
パレルモは同年にも、アパートの上り階段の手すりから足元までの幅を描いた帯を、デュッセルドルフにあるギャラリー、コンラート・フィッシャーの壁面に描き写した。他にも壁面の輪郭をなぞるように塗った作品を繰り返し制作しており、鑑賞者の意識を空間の建築的特性に向けさせた。
こうしてパレルモは、平面に対する一貫した姿勢を維持しながら都市の文脈を参照することで、現実空間を構図として取り入れなおした。まるで、整備された展示空間の外で自分の作品がどう機能するのか実験しているようだ。
彼の展示用作品もこの効果を潜在的に持っている。そういった作品は分かりやすく、パレルモの介入行為は空間全体から受ける感触の中に溶け込んでいる。だが彼の作品は空間的であり、建築の文脈に乗ることで真の多義性が発揮されるのだ。
残念ながら、そういった作品のほとんどはサイトスペシフィックで一時的なプロジェクトだったので既に存在しない。だがこういった空間的性質を持つ儚いプロジェクトは実際のところ、存続期間に制限があると強く印象に残る、というパラドックスが基本にあるのかも知れない。
“それは写真で捕えることができず、実際に空間内に立った人の記憶にだけ残る。” パレルモは自分のウォールドローイングとウォールペインティングについてそう語っている。一時的な作品における彼の狙いは、過ぎ去っていくものとして時間を解釈するのを止めさせることだ。その原動力は、存在と不在の結合である。またこれらの一時的なプロジェクトは、伝統的絵画の死以降の絵画に関するパレルモの先進的なアイデアを明確に表していると言える。
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