見出し画像

【意訳】メル・ボックナー:言語の別側面

クリップソース: Mel Bochner and The Different Side of Language | Ideelart

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

Mel Bochner and The Different Side of Language

Sep 11, 2016

言葉は貴重な資源だ。言葉は意味の倉庫である。言葉は社会が文化を開拓できるようにする。言葉は感情表現、過去の説明、未来の計画を助けてくれる。そして言葉は誤用されやすくもあり、混乱や災いを引き起こすこともある。
コンセプチュアル・アーティストのメル・ボックナーは、そのキャリアのほとんどを言葉というメディウムの探究に捧げてきた。

正確には、ボックナーはライターではない。どちらかといえば記号論の、抽象的美しさの側面に取り組んできた。記号論はシンボルの研究だ。それがどの様に使われ、何を伝え、いかに様々な解釈をされうるのかを探究する。
ボックナーはシンボリックな要素を使って美的事象を生み出す。例えば、普段と異なる文脈で言葉を使用する。一般的なシンボルを借用し、抽象表現として提示することで、鑑賞者はシンボルとその文脈を新しいかたちで解釈できるようになる。
文字やシンボルは結局、画面や空間に配置されたかたち、質感、模様に過ぎないのか?と。

ボックナーは長い間、自分の作品を説明しないように気を配ってきた。言語を使っているので文字通りの解釈はできるが、概念的な解釈も可能だからである。
彼は自分の解釈を全ては開示しないことで、鑑賞者がより多様な作品体験をできる可能性を開いているのだ。我々がボックナー作品を研究しようとするならば、全ての展示は無限の意味を生み出しうる記号論的実験の場へと変わる。

アイデアの力

矛盾した情報で溢れたこの世界で、我々は信じるべきものをどうやって判断するのか?認識論は、筋の通った信頼(Truth:真実)と筋の通らない信頼(Opinion:見解)の違いに関する研究だ。認識論学者は、何より最も重要な真実を知っている:人間の心は自分自身の説得に応じ、何でも信じることができる。適切に説得すれば、自分という存在を疑わせることもできる。

この基本的な人間本来の性質が、我々に想像力を与えている。それが知恵の蓄積と共有、学習、創造を可能にし、人類にできることを拡張している。だがそれは同時に我々を疑心暗鬼にさせ、明らかな脅威を無視させ、お互いに嘘を付き合うことを可能にもしている。

この認識論の本質は、コンセプチュアル・アートと同じくアイデア(概念)だ。全ての信頼・全ての建築物・全ての本・全ての爆弾・全ての銃弾はかつて、誰かの頭の中にしか存在しない概念だった。
認識論学者は、特定のアイデアと人間の相互作用を分析する。彼らは形而上学的な原則に挑戦はしないし、概念の曖昧な性質を具体的な事象へと明確化しようともしない。

だが1960年代にコンセプチュアル・アートが登場したときの目標は明らかにそれであった。このムーブメントのパイオニアの1人であるヨーゼフ・ボイスの説明によれば、コンセプチュアルなアート作品ではアイデアが最も重要な要素だった。
ボイスはこう語っている。“残りは廃棄物とデモンストレーションだ。自分自身を表現したいならば、何か実体的なものを提示しなければならない。だがそれもしばらくすれば歴史的な記録としての役割しか持てなくなる。もはやオブジェクトはそこまで重要ではない。私は物質の根源、その背後にある思想を捉えたい。”

Mel Bochner and his exhibition Working Drawings And Other Visible Things On Paper Not Necessarily Meant To Be Viewed As Art, 1966. © Mel Bochner

メル・ボックナーと最初のコンセプチュアル・アート展

1940年ピッツバーグ生まれのメル・ボックナーは、コンセプチュアル・アートの最初期にカーネギーメロン大学でアートを学び、卒業後はイリノイ州のノースウェスタン大学で哲学を学んだ。24歳でアーティストになるためにNYへ移住したとき、彼が最初に得た仕事はジューイッシュ・ミュージアムの守衛だった。偶然にも彼と同世代の有名アーティストがこの仕事に何人も就いていた。当時のジューイッシュ・ミュージアムでは、最先端の現代アメリカン・アートの展示が繰り返し展示された。
ボックナーは自分の職務の傍ら、時代を先導するモダニストたちの作品を眺めることができた。そこで彼が見た作品の中にはジャスパー・ジョーンズの White Flag もある。この絵画は象徴的なシンボルの文脈を変え、抽象的な模様へと変換したことで有名だった。

Mel Bochner - Self Portrait, 1966. © Mel Bochner

NYに移住してから2年後の1966年、ボックナーは自分が教職に就いていた美大のギャラリーで初個展を開催した。その展示は、一般的なシンボルをアート的オブジェクトとして再文脈付け(re-contextualizing )する、というジャスパー・ジョーンズのコンセプトに強く影響を受けていた。ボックナーはこの展示のためにドローイングのコピー、レシート、技術書、その他の印刷物を収集し、4つの黒いバインダーへと整理した。彼はそのバインダーを台座に置き、“Working Drawings And Other Visible Things On Paper Not Necessarily Meant To Be Viewed As Art”(必ずしもアートとして鑑賞されることを意図していない作業用ドローイングとその他の紙の視覚的要素)という展示タイトルを付けた。

それは画期的な展示であった。一年前にヨーゼフ・ボイスが“ How to Explain Pictures to a Dead Hare”(死んだ野ウサギに絵画を説明する方法)というコンセプチュアル作品でデビューしていたが、それでもハーバードの美術史家:ベンジャミン・H・D・ブクローはボックナーの展示が最初のコンセプチュアル・アートの展示であると宣言した。恐らくボイスの作品は手法的にパフォーマンスだったのだ。

Mel Bochner - Repetition: Portrait of Robert Smithson, 1966 

言葉の中にあるもの

画期的な展示に続いて、ボックナーは“ポートレイト”(肖像画)と呼ぶものを作り始める。それはグラフ用紙を類義語で埋め尽くした作品だ。文字を見たときの直感的反応がそうであるように、ポートレイトは書いてある内容通りの解釈が可能だが、彼がバインダーに整理した素材と同じ様に、単なる抽象作品として観ることもできる。
彼の Self Portrait(自画像)は、selfの類義語を23個並べ、もう一方にportraitの類義語を23個並べた作品だ。紙の上に配置された文字が生み出す形は、うっすらと人間の頭部を連想させる。

Mel Bochner - Measurement: 180 Degrees, Twine, nails and charcoal on wall, 1968. © Mel Bochner

ボックナーが制作したポートレイトの多くは、彼が敬愛する人や友人のものであった。ランドアート作家:ロバート・スミッソンのポートレイトでは、repetition の類義語が反復的な美的パターンによって配置されている。この作品は単純に美的なものとして鑑賞されることを意図して、画面上のネガポジ空間表現に着目している。これは鑑賞者がスミッソン本人の作品:スパイラル・ジェッティにおける玄武岩と露出した湖底の関係と似ている。

Mel Bochner - Measurement: Room, tape and letraset on wall, 1969. © Mel Bochner

成功の測量

ボックナーの初期作品に対する我々の解釈は、彼が借用した言葉とイメージが普通に伝えているメッセージに強く依存しているが、我々がその影響から自由になり、シンボルを純粋な美的オブジェクトとして捉えることができたなら、新しいレベルの熟考を経験できる。例えば、まず文字と言葉が存在することに驚き、その様々な形式がなぜ採用されたのかを想像し、別の文化の中で発展した、同じ意味を持つシンボルについて考えさせられる。

ボックナーが1968年に始めた一連の展示では測量が用いられた。ギャラリー空間をオブジェクトの展示に使う代わりに、テープ、糸、レトラセット(文字や記号のスクリーントーン)を使い、その空間内にある様々な建築的要素の測量結果を記録した。パフォーマンスというよりも一般的な実用性がある測量という行為が、純粋に審美的なものとして鑑賞できる抽象的なマーキングとなったのだ。また、周囲のオブジェクトよりも自分たちを取り囲んでいる見えない空間へと鑑賞者の注意を向けることで、この測量は空間に形を与える、というルーチョ・フォンタナなどのアーティストが掲げていた目標を達成しているのだ。

Mel Bochner - If / And / Either / Both (Or), oil and casein on 28 pre-stretched canvases, 1998. © Mel Bochner

相互接続の役割

ボックナー作品を観た人は多種多様な反応を見せる。ボックナーは、退役軍人が die (死) の類義語で構成された絵画を見つめて泣いていた、との経験談を語ったことがある。よく知られたシンボルを、文脈と関係なく具体的に解釈し、感情的に反応する鑑賞者もいるのだ。
だが他にも、ボックナーのシンボルを単なるかたち:メディウムのプレースホルダーや表面上の質感だとしか受け取らない人もいるようだ。だが、それが第3の解釈を可能にしている。ボックナーが扱うシンボルには意味だけではなく、彼のコンセプト全体の形而上学的な価値も付加されているのだ。

どんなときであれ、人間がイメージを見れば繋がりが生じる。我々はその繋がりをコンジャンクション(conjunction:相互接続)と呼ぶ。それがある人の体験と他の誰かの体験の橋渡しをするのだ。我々は日常生活を通して、コンジャンクションを適切に解釈できるように自らの脳を訓練しているとも言える。だからこそ、我々は美学的に複雑なこの環境でも住み続けることができる。

生計を立てるための日々の中でふと立ち止まり、現実を構成しているものに満足しているか、などと考える機会はほとんどない。
ボックナーは我々の文化におけるシンボルや文字を再文脈付けすることで、我々を立ち止まらせ、新しい視点から社会構造について考えたり、自己投影する機会を与えてくれる。
彼が我々に与えてくれるのは、日常的な危険から切り離された、安全で知的な環境である。そこで問われるのは、我々は何をして、何を良い、何を作っているのか、それに何の意味があるのか?という重要な疑問である。

Featured Image: Mel Bochner - Do I Have to Draw You a Picture, 2013. © Mel Bochner
All images used for illustrative purposes only
By Phillip Barcio


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?