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【意訳】デヴィッド・オストロフスキー:Concerned with things as their own composition

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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クリップソース: David Ostrowski &quot

David Ostrowski “Concerned with things as their own composition” Ramiken / New York

February 20, 2023

David Ostrowski “Concerned with things as their own composition”. Exhibition view at Ramiken, New York, 2023. Photography by Dario Lasagni. Courtesy of the artist; Ramiken, New York; and Sprüth Magers, Berlin / London / Los Angeles / New York.
David Ostrowski “Concerned with things as their own composition”. Exhibition view at Ramiken, New York, 2023. Photography by Dario Lasagni. Courtesy of the artist; Ramiken, New York; and Sprüth Magers, Berlin / London / Los Angeles / New York.
David Ostrowski “Concerned with things as their own composition”. Exhibition view at Ramiken, New York, 2023. Photography by Dario Lasagni. Courtesy of the artist; Ramiken, New York; and Sprüth Magers, Berlin / London / Los Angeles / New York.
David Ostrowski “Concerned with things as their own composition”. Exhibition view at Ramiken, New York, 2023. Photography by Dario Lasagni. Courtesy of the artist; Ramiken, New York; and Sprüth Magers, Berlin / London / Los Angeles / New York. 
David Ostrowski, Hanger, 2022. Acrylic and paper on canvas, wood. 101 x 71 cm. Photography by Dario Lasagni. Courtesy of the artist; Ramiken, New York; and Sprüth Magers, Berlin / London / Los Angeles / New York.

デヴィッド・オストロフスキーの新作絵画では、あるひとつの主題だけが描かれている:洋服ハンガーだ。

それぞれの絵画で繰り返し描かれているハンガーは画面の上側にあり、まるで引っ掛けられているかのように、そのカールしたホックは画面のエッジ上に描かれている。クローゼットバーの幻影が皮肉にも、精神的な水平線として全ての絵画を繋ぐ点線になる。
それぞれのハンガーは空っぽだ:服はない、ファッションはない、人物もいない。だが不在によってこそ、そこに描かれていないものの存在が強く感じられる。

スプレー塗料、輪郭線、背景、前景、貼られた紙、ドリップ、ドラブ(くすんだ茶色)、ホコリ、擦った跡、カットアウト、パッチ、そして尖りきった雑さが、その混沌とした汚い単色の画面に魅力を与えている。
それぞれのハンガーの描き方は異なっている。痕跡、暗示、残留物が積み重なったマイクロ・デシジョンズ(小さな選択)の集積は、鑑賞者から判別されることを拒絶する。
数センチごとにぼやける線のリズムは、ブラシがどれだけの絵具を含めるかを示している。筆を運ぶ過程で絵具が掠れ、何度も何度も再充填され、官能的かつ控えめな気体へと蒸発していく。
高潔さは画面から滑り落ちてしまっている。そのハンガーの多くは一見すると画面上に描かれている様に見えるが、実際には下層に描かれており、その輪郭の紙一重のキワまで背景色が塗られている。

いくつかの絵画は、完成後にカタログの為に撮影された後に木枠から外され、一部を切り取られたり、貼り付けられたり、上描きされている──まるでゾンビへの外科手術だ。

それぞれのハンガーは柔らかい口調で、歴史的な絵画の規範を画面上に召喚しているが、その馴染み深さは奇妙さへと脱構築されている。まるで煙信号を読むかのように、かすかな細部を識別しなければならない。
それは疑心暗鬼な人間を捕らえるための罠のようだが、その罠に引っ掛かったところで、そこには親しみやすい手仕事の跡があるだけだ。
美術史を試すようなこの偽旗作戦はバレバレのフェイントであり、大した衝突は起きず、審判に判断を仰ぐまでもない。
この奇妙だが親しみやすい雰囲気が、心地よい幻として残こされている。

イェルグ・ハイザーは“Numerous Sides of Nothing(無の多面性)”というタイトルのエッセイで、オストロフスキー作品の解説を書いたプロセスについても解説している。ハイザーは、アラン・バディウやジャック・デリダ、ジャック・ラカンといった哲学者たちの、無と虚無に関する仰々しい語りを脇に置いておく必要があった、と語る。なぜならラリー・デヴィッドやジェリー・サインフェルドの方がよっぽど参考になると思えたからだ。(どちらもコメディアンで、“隣のサインフェルド”のライター)

ハイザーはその2人だけでなくもう一人、ポーランド系ユダヤ人の風刺作家であり、オストロフスキーの祖母でもあるクリスティナ・ズィヴルスカについても言及している。
1946年、ズィヴルスカは“地獄(アウシュヴィツ)からの生還”で収容所での体験を書いた。その後、1963年の “Empty Water”では、ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のことを書いている。

空っぽのクローゼット。人間の不在。

この絵に描かれていないものが他にも何かあるだろうか?
夏にオストロフスキーのスタジオを訪ねたのと同時期に私の故郷のニュースは、最高裁の中絶の権利に対する判決に抵抗する行進の中で、ワイヤーハンガーを掲げる抗議者たちのイメージが溢れていた。

形式的・物理的に要素を切り詰めた上でモチーフを描き加えることが、多くの沈黙を解き放つ。こ視覚的な反響を生み出す量子的な絵画となるのだ。そこには忍耐強さ、協同体の思い、絵画的な叡智が積み上げられ、多次元的な時間感覚の集積となっている。

これらの作品に、連続的な歴史は埋め込まれていない。空っぽの空間がまるで時間のように感じられる──それこそが彼の生み出したイリュージョンである。
オストロフスキーが自分の作風に反して生み出した全く新しい絵画形式とは、まさにこれなのだ。

アートは空間を生み出す、とよく言われるが、オストロフスキーの新しい絵画は空間と時間を生み出す。
彼を象徴するこの虚無性はきっと、打ち消されたり失われることはなく、むしろ拡大していくだろう。


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