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【意訳】抽象画をやめたフィリップ・ガストンとそれに激怒したアートワールド

Philip Guston Turned His Back on Abstraction—and Threw the Art World into a Fury

Source: https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-abex-painter-philip-gustons-return-figuration-enraged-art

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

https://www.artsy.net/artwork/philip-guston-the-studio
https://www.artsy.net/artwork/philip-guston-the-line 

ボブ・ディランはエレキギターを弾きはじめた。マイケル・ジョーダンはベースボールに転向した。ビル・マーレイは真面目な演技をするようになった。そして1967年、抽象表現主義が最先端であった時期から10年ほど過ぎた頃、 彼らと同様に画家のフィリップ・ガストンは具象的な作品へと回帰した。

アーティストやエンターティナーが自分で踏み固めてきた道の外へと飛び出す理由は単純なものではない。だが前述の人々はみな、突然のキャリア転向を批評家やファンから叩かれた。彼らはフォークソング、バスケ、コメディ、抽象表現主義など、喝采を送っていた業界を放棄した薄情者、ナルシスト、もしくはただのバカとして断罪されたのだ。
同じく1970年、マンハッタンのマルボーロー・ギャラリーで個展を開催して以降、 様々な侮辱がガストンに対してぶつけられた。NY北部で実りある3年間を過ごした後、50代後半となったガストンは33点の新作絵画をそこで発表した。それらの多くは漫画的で、KKKの頭巾のようなとんがりヘッドが血まみれになっている感じの人物画だった。他の作品は山の様に積まれたブーツ、時計、手、電球といったモチーフが鈍い赤と黒い線で描画されたものだった。

https://www.artsy.net/artwork/philip-guston-city-limits

アメリカの批評家達が賞賛したあの抽象画からこの作風への変化は信じ難かったことだろう。しかもガストンが、数年間このスタイルで描き続けていたとは。
この新作絵画は依然として影響力を持っていたクレメント・グリーンバーグのモダニズムの定義:絵画の純粋性と平面性への回帰に違反していたため、他の具象絵画と同様に鼻で笑われた。かといって、その作品にはレオ・スタインバーグがパルチザン・レビューにて賞賛したポップアートの様に、人工的なニュアンスや皮肉が含まれている訳でもなかった。
当時のNYのアートシーンはガストンの新作のどこが駄目なのか、明確に言い表すことができなかった──悲惨な失敗作である、ということ以外は。

タイム・マガジンの美術批評家ロバート・ヒューズは、ガストンの最初期のKKKの作品を知覚過敏気味に軽蔑した。ヒューズ曰く、この具象画はマジで観る気が起きない。中でも傑作の皮肉は、NYタイムズのヒルトン・クラマーによって書かれたものだろう。彼に言わせれば、ガストンは“ヘボのふりをする高級官僚”である。これはつまり、レッド・グルームスやウェイン・ティーボーなどの画家によって当時流行していた下品で粗野な絵画にガストンは影響を受けたのだろう、という意味である。
中でも最悪の揶揄は、ガストンは開拓者というよりは入植者である、という言葉である。クラマーはその1000文字の批評の中で素晴らしいまでの嫌味を2つも繰り出していた。
後知恵になるが、クラマーの記事はガストンに対してほんの少ししか言及しておらず、その多くはNYの重鎮批評家に対するものであった。
クラマーとその仲間たちは株式市場のロジックがコレクターと批評家に影響を及ぼし始めた時代に記事を執筆していた。またその時代は新規性こそが最高の美徳とされ、“実際にはそうでなくても過激に見える作品”がもてはやされる、作家を死へと誘う賞賛がおこなわれていた。そういった空気感の中では、二番煎じへの非難こそがアーティストに対する最大の侮辱だったのだ。

Philip Guston, Mother and Child , 1930. © The Estate of Philip Guston. Courtesy of the Estate and Hauser & Wirth.
Philip Guston, Painter III , 1963. © The Estate of Philip Guston. Courtesy of the Estate and Hauser & Wirth.

一方でガストンは作家として成長していた。彼のキャリアは1930年代初期、政治思想を持った壁画家として始まっている。彼を有名アーティストにしたのは、フランクリン・D・ルーズベルトの公共事業促進局であり、私的表現とプロパガンダ的表現の間で揺れるアメリカの地方のアートシーンであった。
ガストンはアイオワ州、ミズーリ州、NYで10年ほど教職に携わったのち、自分の高校の同級生、ジャクソン・ポロックによって名を上げた抽象表現主義の絵画に取り組み出す。
だが、ガストンは盗作者ではない。いくつかの本質的な原則を彼らと共有してはいたが、1950年代の彼の絵画はポロック、ロスコ、デ・クーニングらの作品とそこまで似通ったものではない。

例えば彼のキャリア中期における傑作 Zone (1953–54)は、 派手に絵具が飛び散った成熟期のポロックの作品よりも、はるかに静かで落ち着いた暗い色彩の作品であった。

以上の経緯から、ガストンの作品はNYスクールの抽象表現主義とみなされていた。この言葉の“主義”という部分に、厳しく、変更不可能なルールの存在が示唆されている。以前は意味の開かれたゆるいことばで、同時期に同じ場所に居合わせたアーティストのグループを指す用語だったのだが。
トム・ウォルフは1975年に論争を生んだ論考 The Painted Word(描かれたことば)において、抽象表現主義の皮肉な現状を指摘した。
抽象表現主義は“アカデミックなアート”の教典に対する反乱として始まったのに、結局は自分達も同じくらい厳格な教典を作り上げて凝り固まってしまったではないか、と。
ガストンの収まることを知らない画家としての好奇心は、このようなムーブメントに落ち着いていられるものではなかった。
60年代以降、彼は具象絵画に回帰して、残りのキャリアも実験を続けることにした。マルボーローの個展でお披露目されたKKK風の絵画は、残忍さとニクソン政権下における隠す素振りも無いようなレイシズムを想起させる。政治的な意味は、AbEx(抽象表現主義)の画面には収まらなかったのだ。

Philip Guston, Studio Landscape, 1975. © The Estate of Philip Guston. Courtesy of the Estate and Hauser & Wirth.

また、これらの作品は、ガストンの痛ましい過去を表してもいる。
彼の両親はふたりともユダヤ系で、ウクライナのオデッサからアメリカに避難してきた。そしてガストンは地方で発生していたKKKのユダヤ民族に対する犯罪行為を聞かされながら育った。
この事実は、父親の自殺に反ユダヤ主義の影響があったことを予感させる。そのとき、ガストンはまだ10代であった。だからこそ、ガストンは1970年の展示においてこの問題に戦いを挑んだのだ。それは長い長い熟考を経て実行された私的闘争であると同時に、審美眼との闘争でもあった。このことを知っていれば、彼は安易に話題性を求めたのでは?などと言うことはできない。
1978年、NYの批評家のロベルタ・スミスはマルボーローの展示を鑑賞し、美術誌のArt in Americaにこう書いた。“ガストンは終ってなどいない。彼は高貴さを失ったのでなく、その作品で根源的な表現をおこなっているのだ。”
この記事は、彼のキャリアに対する思慮に富んだ解釈であると同時に、抽象表現以降の作品が裏切り行為とみなされてしまう理由を鋭く解説している。
ロスコやポロックと違い、ガストンは自分の作品を通じて優越感を得ようとはしなかったようだ。だが彼の具象画は、スミスが言う“分厚く、たくましい崇高さ”を初期の抽象画よりも持っている。
この崇高さを表現する最適な方法を見つけるために、彼は絶え間なく自分の歩みを振り返り、再発明を続けた上で、この批評家を苛つかせるスタイルこそが更なる前進に極めて重要だと確信したのである。
ガストンはこの作風の絵画を1980年に亡くなるまで描き続けた。マルボーローでの展示以降、彼の評価は50年代と同等のレベルにまでゆっくりと上昇していった。現在、彼の作品はMoMA、Tate Modern、Art Institude od Chicagoなどに所蔵されている。とはいえ、その人気はポロック作品の持つ威光と比べればかなり下のほうである。(あくまで画家ではなく、美術館の顧客にとっての話だが)
だが少なくともガストンは、その悪評が覆るのを聞くほどには十分に長生きした。
ヒューズは後に、ガストンを“並外れた能力を持つ具象画家”と評した。彼を含む多くの美術批評家たちは、ガストンの具象絵画への回帰に対して驚くほど間違った見解を示していたが、ヒューズはその間違いを潔く認めるだけの品格を持っていた。
1970年は重要な転換点であったと過去の発言を修正した彼のアートへの愛は、時には謝罪も必要だと我々に教えてくれる。

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