『カフェの魅力。理由はボーダーレスにある? :』


カフェ。ヨーロッパ発祥の偉大な文化。もともとは珈琲を意味することばが転じ、「珈琲などを提供する飲食店」を意味するようになった。そのカフェが最近、それだけにとどまっていない。そう、今まさしく、カフェのボーダーレス化が起こっている。

ちなみに私はカフェ好きを『ひっそり』公言しているが、激動の最新カフェ事情ににめちゃめちゃに詳しいとか、毎週決まった時間に行きつけて、決まったメニューをオーダーするこだわりの店があるとか、あのマスターとは昔からの顔馴染みとか、いわゆるカフェっぽくて目にも身体にも美味しいご飯が作れるとか、将来的に自分の思い描く理想のカフェを開こうと目論んでいるとか、そういうことではなく、ただ単にカフェが好きなのである。

カフェが好きとは、つまりカフェに行くこと、もっと細かく言うならば、自分の家の外でありながら、まるで家の中に居るように、居心地の良い空間にいることが好きなのである。(その次に珈琲が好きです。)その居心地の良い空間が、オーナーの趣味によって、ときに一癖も二癖もあったりするからたまらない。

公共的な空間でありながら、誰でも気軽に自分、あるいは自分たちの空間をそこに作り上げてしまうことのできる、いわば秘密基地的に特別な場所。その個の空間は、あくまでも公共的な空間の中に限定的に作り出されたものであるので、線引きは曖昧である。そのため、カフェ空間の中では、個を個とするボーダーがぼやっとして、人との繋がりが生まれやすいような気がする。そうして新たなコミュニティが発生し易いという側面もある、気がする。

カフェとはつまり、公共の空間と個の空間との線引きが曖昧になり、ボーダーレスを気軽に体験できる場所であると言えるのではないか。それこそが大きな魅力であり、それを求める人がいる限り、カフェが社会に存在する意義のひとつとなる。(ちなみに存在意義はもっともっとあります。今回は割愛)

話が逸れてしまったので本題。今回は、そんなカフェに「行く理由」が、現代社会ではボーダーレス化しており、「珈琲などの飲食物を提供してもらうため」だけではなくなっているという話である。

分かり易い例で言うと、都市部を中心にその数を増やす蔦屋書店。店内に併設されたカフェ(スタバですね)に、本を読んだり、本を買ったりするために行く。他にも身近な例で言うと、どこても気軽に立ち寄れるコンビニ。カフェとも言えるイートインスペースの併設が、これも都市部を中心に増え続けている。

他にも、生演奏が聴けたり、旅行のプランが練られたり、服や雑貨や花、車までも買うことが出来たり、ヘアカットやネイルをしてもらえたり、美術の展示やプラネタリウムが見られたり、寝泊まり出来たり、シーシャが吸えたり、自転車が借りられたり、洗濯が出来たり、猫やうさぎやふくろうと戯れられたり、、、。

なんというか、つまり、なんでもありなのである。このなんでもありなところに、カフェの無限の可能性を感じる。(個人的に)
カフェが〇〇に後付けされたのか、〇〇をカフェに後付けしたのかはこの際どうでもいい。そう、ボーダーレスなのだから!

先ほど述べたような、カフェ空間がボーダーレスであるがゆえの存在意義と、最近かなり顕著な、カフェに行く理由のボーダーレス化によって現れた、この無限の可能性でもって、なるほど理にかなった合理的新発想なカフェやら、人気や流行なんて気にしない、カオスでおかしなオーナーの趣味爆発!みたいな素敵なカフェやらが、今後も世に増え続けて行くことを願っています。カフェ万歳。