2023年10月に読んでよかった本 「サークル有害論」
サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか 荒木優太
興味深く読ませてもらったのだけど、レビューを見てみると結構評価低め。
これはおそらく、タイトルから想像されるような
「世の中にはこんな悪いサークルがあります!みなさんも気を付けましょうネ!」
といった事例紹介と表面上の注意喚起ではなく、なぜ集団はそのような「毒」を持つのかという根源的な問いに説明を与えることを試みるものであったからだとおもう。
帯に「解毒法、教えます」と書いてあるが、本書が提示しているのは、帯文から想起されるような直接的な解毒法などないということである(そのような言説を批判しているようにも読める)。
たしかに論の進め方がまっすぐじゃなく(?)て、大意をつかみにくいが、言ってることはそうひねくれていないようにおもう。
この記事では、先月読んだ、家族と民主主義について論じた東浩紀『訂正可能性の哲学』と比較しつつ、わたしが得た考えを述べる。
先に結論だけいうと、『訂正可能性の哲学』の主張は、「民主主義には対話が原理的に必要であり、それを取り除こうとしてはいけない」だったが、それをサークルと自己に置き換えたときにも同じことが言える。つまり、「人間には他者との会話が本質的に必要であり、それを無くそうとしてはいけない」。
ただし、『訂正可能性の哲学』は、家族や社会という人が必ず所属しなければいけない集団(ゲマインシャフトと言ってもいいかも)についての論だったのに対し、本書が論じるのは、サークルという同好の士が集まる、ある程度出入り自由な集団(ゲゼルシャフトといってもいいかも)である。有り体に言うと後者には「嫌なら出ていけばいいじゃん」が成立してしまう。その上でわたしは「嫌でも会話を避けようとしてはいけない」ということを読み取る。もちろん時と場合と程度によるが。
回想的自己と期待的自己
荒木は哲学者鶴見俊輔の歴史に対する見方、回想的(リトロスペクティブ)と期待的(プロスペクティブ)を自我に適用して、回想的自己と期待的自己という言葉を使う。
回想的歴史とは、現在地点から過去を判断する視点でつづられる歴史である。その時はよいと思っていたけど、今から見れば馬鹿馬鹿しいものはたくさんある。対して期待的歴史とは、現在の価値判断を含まない、当時の視点でつづられる歴史である。当時の未来への考えをそのまま記録するわけだ。
両者の歴史を自己に変える。
回想的自己とは、他人として見た過去の自分であり、期待的自己とは、共同体(サークル)内の「自分と似ているけど少し違う(東の言う「家族的類似性」)」他人、つまり、あり得たかもしれない自分である。
荒木によると、自己は両者の
回想的自己は『訂正可能性の哲学』で論じられるロシア/ソ連の哲学者ミハイル・バフチンのドストエフスキー論で言及される「多声性(ポリフォニー)」に他ならないともおもう。
回想的自己、あるいは多声性とは、自己ツッコミのことであり、一日の終わりにやる(?)一人反省会のことである。
それはとことん開かれていて(なにせ相手は自分である)、終わることがない自分との対話である。バフチンはドストエフスキーの『地下室の手記』からこれを読み取り、理論化する。
東は「とことん開かれていて終わることのない」という部分を抽出して、ルソーの言う健全な統治に必要な、一般意志と並び立つ「小さな社会」(サークル!?)において必要不可欠なものだと主張する。つまり、健全な社会の統治に必要不可欠なものとして、人と人の終わることのない「対話」を挙げる。
それを援用して、わたしが本書から読み解く(そして荒木が暗に主張しているとおもう)のは、健全な自己の統治(自己の存続)には、回想的自己と期待的自己、つまり自分との対話と他人との対話が必要不可欠なのだということである。
いいかえれば、健全な自己であるためには、統一された自己(あるいは真理)なるものへの欲求や羨望を捨て去り、無限に続く過去の自分との、他者との「会話」を受け入れなければならないということなのだ。
荒木の言う「会話」は、サークル内の「自分と似ているけど少し違う」他者となされ、その違いを拒否せずに少しずつ受け入れ、積み重ねるものである。
サークルの「毒」というのは、そういった違いを性急に排除しようとする、ないし同一化を迫る姿勢が生み出すものなのだとおもう。そういった「毒」はサークルの成員だけでなく、自分をも害する。毒とは用法を間違えた薬なわけだ。
逆に言えばそういった「会話」が成り立つ場が(健全な)サークルと言えそうである。
ここでわたしが問題にしたいのは、そういった場が成立することが果たしてどれくらい確からしいかということである。
荒木はそれに関して直接何も述べていないが、読者にサークル運営者/参加者としての心構えを述べていることから、基本的には個々人への啓蒙によって少しずつ成立するようになると考えているように見受けられる。
荒木が論じたことについては特に異論はないが、これを実践する段になると、論じたことの正しさだけでは不十分だと考える(そんなことまで視野に入れていないかもしれないが)。
わたしが言えるのは、少なくとも、読者以外の人々に向けて広くこのようなことを説くならば効果は限定的、ことによると逆効果だとおもうということだ。(前回の記事参照)
本文とは関係ないが、最近はこういった正しいことを発信することの「害」に思いをはせたりするのである。