見出し画像

隣のくーちゃん「幸せな結末」

 くーちゃんには内緒が多い。趣味も年齢も、一度だけ聞いてみたけれど、内緒にされてしまった。

「何で内緒なの?」
「その方がたのしいから」

 くーちゃんは、何に対しても楽しさを優先する人だ。ただ、くーちゃんの言う楽しいの意味はとても広くて、俺にとっての楽しいとは少しずれていた。

「研二は、歌うの好き?」
「好きそうに見える?」
「ははっ、難しいこと言うなあ」

 俺は、自分の声が嫌いだ。高くて、大きな声を出すとキンキンする気がする。だからいつも、小声で話す。何を言っているのか伝わらずに聞き返されることも多いが、不思議とくーちゃんは俺の言葉を毎度正確に拾ってくれた。

「歌うのが好きそうかを見て判別するのは難しいけれど、そういう返しがするっと出てくるってことは、あんまり好きじゃないんだろうね」
「好きじゃないって言うか、嫌いだよ」

 今日は曇っていて月明りがない。くーちゃんはいつも部屋の電気を消しているので、今晩は暗闇に緑の目だけが浮かんでいた。本当に猫みたいだ。少し黙ると、そこにいるのがくーちゃんかどうか不安になる。くーちゃんは独特な間を操って話をする。

「学校の授業とかは?どうしてるの?合唱とかあるんじゃないの?」
「中学は…口パクだった。高校は選択授業だから、美術とってる」
「絵は好きなんだ?」
「消去法だよ。音楽か習字か美術で、まあ強いて言うなら美術かなってだけ」
「へえー。そんな選択肢があるんだ」
「そう言えば、くーちゃんの親って先生やってるの?」
「ん?何で?」
「字が国語の先生みたいだって、母さんが」
「あー、なるほど。ふふっ、内緒」
「やっぱり」

 薄々そう返されると、気がついていた。やはりくーちゃんは内緒ばかりだ。

「くーちゃんって秘密ばっかだよね。そんなこと隠して意味ある?」
「隠し事は嫌?」
「まあ、あんまりいい気はしない」
「正直でいいね。じゃあ、一つだけ教えてあげよう。今日は一つだけ。明日はまた一つ、僕のことを教えてあげる」
「早く教えてよ。何でもいいから」

 俺だけ暴かれていくのは、何だか癪だった。小学生の頃は言えなかったが、最近少しずつ思ったことを言えるようになってきている。

「僕はねえ、歌うの好きだよ」
「それだけ?」
「今日はこれだけ」
「そう」
「がっかりしてるね」
「そりゃあ、まあ」
「じゃあ、歌ってみようか」
「なんでそうなるの?!」
「聴きたくない?僕の歌」
「聴きたい、けど…ここでは、ちょっと」
「なんで?」
「き、近所迷惑にならない?こんな時間に」
「大丈夫だよ。僕、歌うまいから」

 そう言われても、まだ外は塾帰りの小学生や、仕事終わりのサラリーマンなどが歩いているような時間帯だ。今日俺は偶然部活が早く切り上げられたのでこんな時間に部屋にいるが、本来だったらようやく家に着いていた頃。暗くなってはいるが、人通りは多い時間。急に歌が聴こえてきたら、注目されてしまうではないか。そう口にすると、それの何がいけないのかと言われた。

「うるさかったら迷惑かも知れないけど、僕の歌はうるさくないから大丈夫だよ」
「そんな理屈…」
「まあまあ、一回聴いてみてよ」

 本当に歌うのか、窓を開けて。カラオケボックスでもない、こんな所で。俺からしたら、信じられない。外で歌うなんて、変な人だと思われたらどうしようとか考えないのだろうか。例え音楽室で先生一人だけを前にしていたとしても、俺は絶対に人前で歌いたくない。

「よく考えてみて。どうして外で歌っちゃいけないと思っているのか。君が歌うわけではない、僕が歌うんだよ。それでも君が止めたのは何故?僕の歌を聴きながら、考えてみてごらん」

 それからくーちゃんは目を瞑った。目の前には暗闇と、薄っすらと人がいるなということだけがわかる。そしてそののっぺりとした闇から、歌声が聴こえてきた。
 驚いた。息を呑んだ。本当に、上手かった。よく考えてみたら、普段からくーちゃんは良い声で話していたのかも知れない。あまり意識していなかったから、わからなかったけれど。
 彼が歌っている曲を、俺は聴いたことがなかった。少なくとも、今街中で流れているような流行歌ではない。それでもとても耳馴染みの良い、素敵な曲だった。俺はこの曲が、とても好きだと思った。周りのことなんて気にならないくらい彼の歌声に没頭していたら、いつの間にか歌は終わっていた。また二つの緑色が、暗闇にぼうっと滲み出てくる。

「どうだった?」
「…すごかった」
「よかった」

 歌う前は自信があるようだったのに、歌い終わったら、不安そうに瞳が揺れていた。瞬きが多く、光が見えたり消えたりするので、モールス信号みたいだった。

「人前で歌うの久しぶりだったから、流石に緊張したね」
「緊張とかするんだ、くーちゃんも」
「するよ。僕を何だと思っているの」
「時々、同じ人間かどうか不安になる」
「おっ、鋭いね。僕は本当は人間じゃないんだよ」

 こういう冗談も、もう慣れっこだ。

「研二はこの曲知ってた?」
「知らなかった」
「あらー、そっか。昔のドラマの主題歌だから、聴いたことぐらいはあるかと思ったんだけどなあ」
「あ、やっぱり最近の曲じゃないんだ」
「最近の曲、あんまり知らないんだよね。まあでも、良い曲でしょ?知らなくてもさ」
「良い、曲だった」

 誰が歌っていたなんて言う曲か、敢えて聞かなかった。何だか、自分の力で知りたいと思ってしまったから。くーちゃんも自分から教えてはくれなかった。

「くーちゃんは歌うことが趣味なんだ」
「うーん、そうなのかな?」
「前、趣味も内緒って言ってたから」
「ああ、言ったっけ、そんなこと。好きなことが多すぎてさ、いざ趣味は何ですかって言われると難しいんだよね」
「いいな、そんな人生」
「研二にもできるよ、そんな生き方」
「無理だよ」

 くーちゃんは自由だ。俺は不自由だ。今、高校二年生の春。もうそろそろ進路について考えないといけない時期。俺はくーちゃんのことが好きだったけれど、くーちゃんの生き方はとても真似できない。普通に進学して、就職するのだ。絶対に。

「そうだ。なんで外で歌っちゃいけないと思っていたか、自分でわかった?」

 数秒考えた後、こう答えた。

「独り占め、できないから」

 俺のその返答はくーちゃんにとっては意外だったようで、常に大きな瞳が更に一際大きく開かれた。

「よく、聴いてくれてたんだね」

 くーちゃんが歌った曲の、最後の歌詞。

「今夜君は僕のもの」

 さっきのくーちゃんの歌声が他の誰かに聴かれていたら、俺は凄く嫌だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?