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あおい海

このあいだ観た舞台の感想を書いたところ、

というご指摘を受けて、たしかに言葉も足りていないしせっかくなので、もう少し考えてみたお返事みたいなもの。

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ご指摘ありがとうございます。

作品(すこしSF)についての感想なので一般化も難しいとは思いますが、この『みどりの山』という作品は妊娠し、出産するという営みが女性の身体に大きな負担を強いるものだということを改めて深く考えさせてくれる作品だったです。

作中では舞台が近未来に設定され、そこでは男性も妊娠できるようになっています。

それは翻って現在の女性の社会進出の難しさや、そもそも今ある性差別の根源みたいなものについて考えるきっかけにもなりました。

作中では「クライアントから依頼された妊婦(夫)」という人たちが主な登場人物で、ここではある意味で恋愛と、結婚、出産が切り離されていました。

なので、自分の家庭を持っているけど、生活のために依頼を受けて代理出産をする、というような登場人物が出てきて、これが私にはとても印象的でした。
(※ごめんなさい正確にはすこし異なるかもしれません…!)

そうか、この作品の世界では家族がいるけど誰かほかの人の子供を身ごもり、その子を出産するというのが仕事になるんだ、と思って不思議な気持ちになりました。

たとえば現実の自分のパートナーが、自分以外の子供を身ごもっている、それでも家族であり続けるというのは、今の自分の想像力ではちょっと想像ができないな、と思ったからです。

この部分が印象的だったというのは、結婚すれば家族になるのは当たり前、こどもをつくるのは当たり前、結婚しなければ(そして生物学的な男性と女性でなければ)子供は持てないのだ、というようないわば現在の当たり前の規範にいかに強く自分が囚われているかということの証左でもありました。

どうしても今の自分が結婚ということを考えた時に、恋愛と性愛、生殖をひとつながりにして考えている。

そしてある部分では結婚して家族になるということを考えるときに、避妊具なしのセックスを想定し、そのことを考えて怯んでしまうことにあらためて思い至ったからだと思います。

怯んでしまう、というのは男性の私が、パートナーに子供が生まれれば経済的、家庭的にさまざまな責任が生じることを思い、それと現在の自分の状況を引き比べておたおたする、というようなことです。

どこまでいっても、現実には女性が子供を身ごもり、大きな身体的な負担を伴いながら子供を産むことで家族になる。

そしてよほど限られたケースでなければ、産後も母親が育児の大きな部分を担うでしょうし、その間男性は経済的な支えとなれるようつとめる。

男性も妊娠・出産できるようになっていて、しかも「生んだ人間が必ずしもその子を育てる必要がない」という戯曲の中のファンタジーを通じて、妊娠・出産という生物学的な機能と、それにまつわる様々な社会的な条件が、しかしこれほどまでに深く両性を隔てているのだと言う事にあらためて思い至りました。

たとえば家父長制度の下、恋愛の自由がなかった時代から現在自由恋愛ができるまでに社会制度が変容したように、サイエンス・フィクションの長い目で見た時に、人類(特に女性)が「妊娠・出産」という大きな身体的な負荷を免れ、さらに結婚という制度と「妊娠・出産」が切り離されて考えられるようになったとき、今よりも自由に婚姻や出産を含む家族制度のことを考えられる日が来るのかもしれないという夢想を、この作品の趣向を通じて得たという感じです。

もっといえばそうした世界が訪れた時には、男性と女性という二つの性を今よりもはるかにフラットに考えられるようになり、現在LGBTQと呼ばれるような様々なグラデーションを持つ性のありようを、多くの人が自然に受け入れられるようになるかもしれない、とも思いましたがこれはかなり繊細な話題なので正直ちょっと自信がありません。。

「おさかな」の部分に関しては、いわゆるネタバレ的なことに関わるので直接の言及がややはばかられますが、人が人から生まれなくなくてもよいとすれば、それってものすごく変だけど、たとえばそこら辺のカマキリの卵やカンガルーの袋、あるいは牧場の雌牛とかから人が生れられるようになったら、それってむしろものすごく自由だよね、どこへでも行けるよね、でもそれってもしかしてすこし淋しいのかもね、というメタファーと理解してああいう感じの記述になりました。

そしてその淋しさというのは、裏返せば今女性が女性であること、母が母であることの、もっともささやかな肯定の形なのかな、とも思うのです。

また、私の中には「着ぐるみ・被り物偏差」「DEM(デウス・エクス・マキナ)偏差」という観劇の際の基準があり、その数値が総じてかなり高めだったということも申し添えておきたいと思います(なんのこっちゃ、と言われるかもしれませんが…)。

これらはあくまでサイエンスフィクションを観ながら勝手に考えたただの感想で、もちろん現実については夢想することなく、所与の条件の中で醒めた目で一つ一つ事にあたらなければなりません。

ただ、これから現実的に結婚や出産という事を考えるときに、そうしたフィクションによる想像力でもって「今よりもすこし自由かもしれない」という視点から、自分が置かれている現実や社会や物事を捉え、選択し、行動を積み重ねていくというのは悪いことではないのかもとも思います。

(これについては結局自分の人生でもって総括することにはなるとは思います。。)

あと「畸形」というのは小幡欣治さんの『畸形児』という戯曲を読んだのでつい使ってしまいましたが、ある時代の人の生き様や、その人生のなかで大事に守ろうとする価値観が、その時代のほかの大多数の人から理解されず「畸形」に見える、しかしのちの時代に読み直された時、それはかえってその当時の社会に足りなかった通念や社会的合意、制度を浮き彫りにするものであるという点で、云い得て妙で、皮肉の効いたうまい表現だと個人的には思っていました。

が、たしかに強い言葉ですね、気をつけます。。

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