#003「未来は過去を変えられる」ということについて

「人間万事塞翁が馬」という中国の逸話を知っていますか。かなり有名なので、聞いたことある方も多いと思いますが、あらすじは以下の通りです。

ある老人が飼っていた馬が、突然いなくなってしまいました。周りの人は老人を慰めますが、彼は「これが福に転じるかもしれない」と言います。しばらくすると、その馬が別の馬を連れて老人のもとに帰ってきました。周りの人は喜びますが、老人が「これが禍に転じるかもしれない」と言うと、今度は老人の息子がその馬から落ちて足を骨折してしまいます。再び、周りの人は老人の心情を気遣いますが、彼は同じように「これが福に転じるかもしれない」と言いました。すると、隣国と戦争が勃発しますが、その際に老人の息子は怪我をしていために兵役を免れたのでした。

一般的に言われるこの逸話の教訓は、「人生の禍福(幸・不幸)は予測するのが困難であるから、人生の出来事に一喜一憂するべきではない」というものです。


本当にこれって正しいんでしょうか?
というのは、この教訓はしかるべきものなのでしょうか、ということです。


確かに、この老人の場合は、身の回りで起きた出来事に一喜一憂せず、常に冷静でいました。その結果、大切な息子が戦争に駆り出されずに済んだという結末を迎えました。しかし読んでいて、こんな偶然が立て続けに起こるわけないじゃないかと感じたのは私だけでしょうか。

私がこの逸話から見出したメッセージ

もちろんこれは逸話なので、話の内容における実現可能性についてあれこれ言うのが不毛であるというのは百も承知です。だとしても、この老人の場合のように、極めて発生確率の低い出来事の連続の結果を引き合いに出されて、こういうこともあるだろうから、一喜一憂するな頑張れよという励ましの言葉を向けられても、やはり、それは結果論じゃないかと口をはさみたくなります。

そこで、より現実に即して、この逸話から得られる教訓を考えてみると、「未来は過去を変られる」というものが一つのオルタナティブになりえるんじゃないかと思いました。「過去は変えられないが未来は変えられる」と言われることが多いですが、ここでは逆です。未来が過去を、変えるんです。


繰り返しになりますが、この逸話において、過去の捉え方を変えた出来事はすべて、行動主体の力ではどうすることもできない「偶然」によってもたらされました。老人を行動主体だとすると、馬がいなくなったのも、その馬が別の馬を連れてきたのも、息子が落馬したのも戦争が勃発したのも、すべて老人の意思とは関係のないところで起こっています。この老人は「これが福(禍)に転じるかもしれない」という発言によって自身の将来をただ俯瞰する以外、外界に対して何ら自発的な行動を起こしていないのです。フィクションの世界では、老人は何もせずともハッピーエンドを迎えることが出来ましたが、現実世界でこの老人のようにすべてのことがうまく運ぶといったことは、そうないと思います。そこで、この老人のように将来をただ傍観するのではなく、我々自身が過去を変える主体になろうよというのが、この「未来は過去を変えられる」というメッセージに込めた意味です。


確かに、老人がどんなことが起ころうとも一喜一憂せず、常に冷静でいたのは事実です。しかしそれと同時に、未来の出来事によって、老人のなかで過去のとらえ方が変化したのも、また事実です。冒頭でも述べたとおり、この逸話に関して、前者の方にばかりスポットライトがあてられることが多いように感じますが、私はこの逸話において本当に目を向けるべき点は、後者の方だと思うのです。過去において、ある出来事が起こったという「事実」は変えられませんが、その出来事に対する「解釈」はいくらでも改めることが出来ますし、むしろこの逸話はそのことを非常にわかりやすく描いているのではないでしょうか。

2冊の本より

さらに、この「未来は過去を変えられる」ということを端的に述べた一説が登場する2冊の本があるので、紹介したいと思います。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるともいえるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないんですか?」

平野啓一郎『マチネの終わりに』毎日新聞出版p29

私たちの多くは「これまでの人生が、これからの人生を決める」と考えてしまいがちです。「過去は変えられない、変えられるのは未来だけだ」という先入観に基づいているわけですが、しかし、本当にそうでしょうか。(中略)「過去」は「これからをどのように生きるか」次第でいくらでも変えられる、ということです。

山口周『クリティカル・ビジネス・パラダイム』プレジデント社 p267


1つ目は「マチネの終わりに」という小説に登場する蒔野という人物のセリフで、2つ目は注釈にある通りの、ある書籍からの引用です。小説と経済書という、まったくジャンルの違う2冊の本において、似たような記述がみられることからも、この「未来は過去を変えられる」という命題はかなりの妥当性があるように思います。

人生何が起こるかわからないのは紛れもない事実ですし、起こった事実を変えることが出来ないのも、また事実です。しかし、ある過去の出来事に対する自身の見つめ方(=解釈)を変えれば、未来の歩み方は大きく、前向きな方向に変わる可能性があります。

起こってしまった過去の出来事の悲しみに明け暮れ、拘泥し、前に進めなくことも時にはあるでしょう。しかし、それを悲観し続けたり、あるいは逸話の中の老人のように「これが福に転じるかもしれない」といってのんべんだらりと無目的的に時を過ごすよりも「これがどうすれば福に転じるか」ということを考えながら、より開かれた未来に身を投げ出すことで能動的に生きることが出来れば、人生が好転する可能性はより高まるんじゃないでしょうか。

変わってしまう過去

また、過去は未来によって変えることができるものであるとと同時に、変わってしまうものでもあると思います。

あいみょんと野田洋次郎が「昔好きだった歌が今は 悲しく聞こえてもう泣き出しそうだよ」と歌うように、片思い中に大好きな曲を聴いていた人が、失恋したのちにその曲を嫌いになってしまう、といったことはしばしば起こることだと思います。楽しかった思い出が、意図せずとも、思い出したくもない記憶に変容してしまう。ここに挙げた失恋は、その最たる例ではないでしょうか。

また、先ほど紹介した「マチネの終わりに」では、次のようなシーンが描かれます。ある女性の祖母が、庭の石で頭を打って亡くなってしまうのですが、実はその石は、その女性が幼い頃よく遊んだ石だったのです。彼女の中で、幼少期の思い出の一つであったその石は、一瞬にして祖母の命を奪ったものへと変容し、その石に対する見方が大きく変わってしまったのでした。これも、過去の幸せな記憶が、思い起こすのも嫌になる忌まわしいものに変わってしまった例だといえるでしょう。

しかし、このように失恋や思いがけない事故によってによって、楽しかった過去がネガティブな方向に「変わってしまう」のであるのなら、逆に、望ましくないとされている過去を、ポジティブな方向に自らの意志で「変えていく」ことだって、案外簡単なのかもしれません。蒔野が言うように、過去は「それくらい繊細で、感じやすいもの」なのですから。

終わりに

ここまで長々と書きましたが、私が一番言いたいのは一貫して、タイトルにある通りです。人生の全てにおいて、常に満足のいく成果を出し続けられる人はそうおらず、誰しもが大きな失敗や挫折を経験することでしょう。そうした一般的には、起こらない方が良かった、できれば避けたかったであろうその失敗・挫折・後悔を、できる限りポジティブに捉えて、その後の成長の糧や未来へのエンジンとなるものへと昇華させることが出来たら、人生は本当に「福に転じる」んだと思います。






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