見出し画像

8月の約束

幼かった頃。まだ小学生にもならなかった時分。祖母からこれは覚えておきなさいと言われたお経がある。

おん 
あぼきゃ べいろしゃの 
まかぼだら まに
はんど まじんはら
はらばりたや
うん

つい先日、これが「光明真言」という名があることを知った。

祖母は不思議な人で、森羅万象分け隔てない人だった。今でいうスピリチュアルな感性を持っていたということなのだと思うのだが、特段これは特別というよりは、起った出来事にとても現実的に対処する人だった。周りから見るととても不思議に感じていたが、殊更それが不思議とも思っていない風だった。

そんな祖母から教えられたお経を、私はちょっと怖いなと思った時によく心の中で唱えていた。

中高生の頃は、怖いもの見たさであったり、見えない物が見えると言ったことへの憧れだったりもあり、得てしてそういう場所や話に首を突っ込むこともあり、そんな時、ヒヤッとした場面でよく唱えた。金縛りにあった時なども解けるまで唱え続けた。

大人になってからは、興味の対象も変わり、自ら首を突っ込むということもなかったが、時折必死にお経を唱えているという夢を見る。

多分、夢の中でなんかあったんだろうなと思う。

そして今ではあの祖母が「覚えておきなさい」と言ったことにも何か意味があったのだろうなと思い、自分を守った方が良さそうだという時にはこのお経を唱える。


話変わって、お盆である。

身内が亡くなり初盆を迎えた。
諸々の事情があり、故人は生家ではない地域のお墓に入り、故人もお参りする人も双方知らないもの同士、よくて顔見知り程度の人が、地域の習わしに則ってお参りにこられた。

そこに故人の話はほとんど語られることがなく、もっぱら遺族とその知り合いが語るこれまでのお盆の習わしの話。話題の共通項といえばそれしかないのだが。

そんな話を傍で聞いていると、「一体これは誰のための初盆(習わし)なのか?」と訝しく思う。

この違和感は今に始まったことではなく、お通夜の時も、お葬式の時も感じていた違和感。

「一体これは誰の為のもの?」

故人に対して正直良い感情は持っていなかった。
高圧的で、自分の意見を通して、周りを追従させる。
だから、手を合わせるときに「こちらはこちらで自分たちでなんとかするから。どうぞ、あちらで楽しんでください」と心の中で唱える。もう、口は出してくれるなという意味を込めて。

そんな私でも、感じる違和感。

ああ、この人は自分の感情をずっと押し込められてたんだなと、思う。こんな形で現れて、昇華しきれていないのだなと。

成仏させないといけないのは、故人に対する残されたモノの感情なのだ。

感情はモノへの執着にも現れる。使いきれずに溜め込まれていく。お盆での習わしの空き時間を使って、何十年と放置され使われていなかったものを捨てる作業をしていく過程でそのことに気がつく。

かつては新品だったものも、時を重ねるにつれ、色褪せ、時代遅れとなり、不要になっていく。「もったいないから」と言い続け、結局使われずに置いておくことに「もったいないなさ」は感じないらしい。

そこで思うに、集められて、使わなかった理由はそんなことではなかったのだ。価値はあるというのに、大切に扱われなかった自分自身の感情。その行き場のない感情はとうに賞味期限が切れたというのに、あまりにも哀れで手放せないでいるのだ。

形だけの習わしをなぞっているだけでは、故人もモノもいつまで経っても成仏できない。

生ききるということはどういうことなのか?

もう一度自分に問い直す。

そして、成仏させてみようと試みる。
8月の約束。



サポートしていただけると今後の励みになります。皆さんからいただいたサポートは、こどもを巡るくらしをサポートして更なる循環をつくります。