MECEのうらがわ
拝啓みなさま、お疲れさまです。木端みのです。
今回は先日公開したMECEでの思考整理についての記事、修正前のものを公開します。
重複する部分はカットしているので、さっと読めると思います。できたら願っている形で伝わってほしい。繋げたいから。
『人が描くことを未来に残すこと』
これを実現するために、できることは何なのかを改めて考えました。
変える部分を決めてそぎ落としたことで、変えない部分の輪郭が浮き彫りになったことはよかったと思います。
私は「未来に残す」の『未来』という言葉から、
「今のこどもさんに伝えて残したい」とずっと考えてきました。
でも、当たり前ですけど
今のこどもさんも今の大人さんのように年を取っていき、
ずっと存在しうるわけではないですよね。
伝えていきたいのは、お孫さんで曾孫さんでその先ではないのか。
そうしたときに、いま、大事な時期のこどもさんを傷つけるかもしれないリスクをとることが本当に必要なのかな?と考えました。
それを考えていた時のメモがこれです。
自分が伝え、親さんからこどもさんへ伝えてもらう、そのこどもさんからこどもさんへ伝えてもらう。
そしたら、残るんじゃないか。
では、何を伝えるのか。
次に、MECEという論理的思考法を使い整理をしました。
そう、わたしに足りないのは論理だったんです…。
MECEとは『モレがなく、ダブりがなく』という意味です。
要素が全部洗いだされ、ひとつひとつが重複しない。
悩みを切り分けて考えることがいま、必要でした。
一番上に来るのは「人が」「描くことを」「残す」
「人が」という部分を
「人が頭を使って」「人が体を使って」に切り分けられる。
「人が頭を使って」は「AIと一緒に」「自分で」
ここでは書いてないですが「他の人と一緒に」というのも要素のひとつですね。
洗い出して、わたしは「AIと一緒に」という要素は省くことにした。
別の人がその要素をとってもいいとは思うんです。
ただ、わたしは割と苦労するのが好きなので。
時間がかかっても、答えを出すための苦労はしたいと思っているんです。
そこで出なかった答えは、自分のものではないのでほしくない。
AIと作ることに興味がないので、
わたしはこの要素を手に取らなかった。それだけです。
そんな感じで要素から、わたしに合うものをとっていく。
「人が体を使って」では、「アナログで」「デジタルで」の要素をどちらもとりました。
大きな変化は、「描く」のなかの
「趣味で描く」「仕事で描く」というふたつの要素から後者を省いたことでした。
もちろん、わたしには今現在たいせつな「描く仕事」があり手放す気はない。それどころか、生きている間に自分が夢見たものだけは作りあげたいという気概がある。
それでも、自分が伝える立場に立つことを考えると
言えるのは「趣味で描く」ことでした。
私がしているような「仕事」だけでは、
描くひとの総数って増えないと思うからです。
残すには、
・漫画家として食っていきたい人
・漫画で何がしかの収入を得たい人
だけじゃなくて、
・描いたことがない人
を取り込む必要がある。
まずは趣味から、合えば続けて、仕事にしたいなら目指す。趣味からはじめよう。
ただ、いまの時代に描くことをはじめる難しさって「評価がつきまとうこと」です。いいね数やフォロワー数という、その、熱量がわからないリアクションの数だけが結果として返ってくる。
それをたくさん持つことが成果としてわかりやすいから、数を目指しがちになります。でも、その評価をした人のほんとの気持ちってわからないんです。たぶん、評価した人さえわからないことがある。
その指標は、はたしてアテにしていい指標ですか?
わからないんです。わからないと迷う人に対する、数多くの「こうすればいいよ」という方法論が溢れている。先の偉人たちが苦労して生み出した、そして時代の中で変わらず受け継がれてきた方法論だから、だいたいは正しいものだと思う。よいほうに導こうとする言葉は、その光を求めている誰かしらの助けにはなる。
でも、合う人と合わない人がいますよね。なぜだろう?
それは目指すところがわかってないからかもしれない。
行きたい場所を決めてからしっくりくる行きかたを自分で見つけるのが、遠回りに見えていちばん近くてはやい。
そこで、目的地を選ぶためのカードを1枚提示したいです。
『自分の描きたいを見つけるためのカード』です。
私はそのカードをものにするために、「手帳や日記のように漫画を描いてみること」をオススメしたい。
それは独り言じゃん、と思うかもしれない。
でもいろんな評価にまどわされる現在、独り言すら本音であるかも定かじゃないかもしれない。
私だって、本心じゃないことを言ってしまう時がある。
間違って言ったことを訂正するのは難しい。
完全に取り消すのはほぼ不可能です。
だから、まずは本当の気持ちを描くことが必要だと思う。
伝えよう伝えようとして、嘘が伝わったら苦しむのは自分だから。
需要は描きたいの、その先です。
そこに需要がなくてもです。評価がなくても、です。
目的地を決めると、いままでどれを選ぶべきかわからなかった道の中から一本決められる。それは、今すでに世の中にある創作論でいい。
それでも、ある程度まで進んだら道が途切れていることがある。その先を続けるためには、手持ちのカードから自分だけの道を探し出さなきゃいけない。
それは、たいへんな思いをして見つけたのに、自分以外は通れない特殊な道かもしれない。
その道に汎用性がなくても、自分にフィットした描きかた…生きかたとも言えるものに出会えたなら、その先はずっと生きやすくなるはずなんだ。
『素晴らしいものを目指して切磋琢磨する』こととは別に、『何気なく描いた、どうでもいいものを愛でていく』ことが大事。
未来に残すことを考えたとき、
名もない人が描いた書物って価値があるはずです。
いま、過去を振り返ったときにそれがはっきりわかる。
競争からは生まれない、そういうものを大事に思っていたい。
そういう時に、大人の購買欲を刺激するものじゃなくて
地味で流行らなそうなこども向けの雑誌がひとつあってもいいなって。
そのために非商業の位置にいる雑誌が『めくるめく』なのかなぁ、と。
後付けですが、意味を見出せたと思ったので前回の記事の補足として公開しました。
今日は若年者検診に行ってきます。ごはんを食べてないのでお腹が空きました。帰ってきたら、たらふく食おう。
痩せる気配のない木端みの、より。
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