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”フクシマ”の始まり

10年前の経験を備忘も兼ねてまとめてみています。
今回は2011年3月12日の記憶をまとめてみようと思います。

3月11日の話については前の記事はこちらにまとめています。

✔︎ 3/12

前日は避難先の小学校の体育館で寝たのだが、
眠れるわけもなく起床。

やはりまだ地震には体が慣れていない。
平気で震度5程度の自信が連発し、
その度に目を覚ましてしまう。

未だ兄とは連絡は取れないのだが、
どこかで生きていると信じるしかない。

一旦津波の心配は無くなったため、
自宅へ両親とともに戻ることに。


実家は幸いなことに
海から車で10分ほどの距離にあったため、
波をかぶることがなかった。

自宅に到着し、玄関をくぐると
事前に聞いていた通り、
部屋はめちゃくちゃ。

食器は散乱し、テレビは倒れ
足の踏み場もない。

両親とともに最低限のスペースを確保して
テレビから流れる情報にかじりつく。

未だネットは使える気配もない。
水道は止まっているはずだが、
給水等に残っていた分だけ使えるみたいで、
蛇口をひねればまだ水が出る状態だ。

なぜ母がこれを思い付いたのかはわからぬが
おもむろに風呂桶に水をたっぷり溜め始めた。
この行動が後の我々の生命を左右することはまだ知らない。

風呂のみならず
水が入りそうな容器には水を入れていった


食料については、母が食料を買い込むタイプだったため
カップ麺やお菓子類がそれなりにあった。

米もまだそれなりにあり、電気も使えたため
溜めた水を使って炊飯し全てをおにぎり化。
ひとり一食一個までの制限を設けた。

カップ麺についても
当時は灯油ストーブがあったため
鉄瓶に水を入れてわかし、それを使った。

とにかく、コンビニ・スーパーには
何もない状況だったため、
家にある食料のみで生活するしかなかった。


部活もなくなったため、特にやることもなく
とにかくテレビから流れてくる
最新情報を取るしかやることはなかった。


そんなこんなで夕方になった。
未だ父とふたりでテレビにかじりついていた。

そんな中で衝撃的な映像が飛び込んでくる。
原発の建屋が吹っ飛ぶ映像だ。

『あ、オレ死ぬんだ』
そんなことを思ったのは後にも先にもこの一瞬のみ。

頭をよぎるのは
チェルノブイリの原発事故。

何をしていいかもわからず
カーテンを閉め、来ていたパーカーのフードを被る。

もちろんそんなことをしても
なんの防御にもならないことは分かっている。

藁をもすがるとはこのことなのであろう。
とにかく自分は死んだ人間だと思っていたのだから。


時間だけがただすぎる。
自分は死ぬのであろうか。
ただ『生きたい』一心。

当時はスマホなんてほぼなく
ガラケーのメールを使っていた。

ネットも徐々に繋がるようになってきており、
チェンメが届き始める。

ふと、ひとつのチェンメに目が止まる。
「ヨウ素が放射線には効果的」。

まあどうせ死ぬなら、
とりあえずやっておくか。

そんなことを思い
父と共にイソジンの原液を飲み干す。


そうこうしているうちに夜になった。

とりあえず生きてはいるし、
家は原発から60km程度南に位置しているため、
大丈夫であろうと、夕飯を食らう。

このタイミングで水道は止まっていた記憶がある。
電気も数時間止まった記憶があり、
ろうそくを囲んで飯を食らった記憶があるが
この日であったかは定かではない。

水道が止まったため、
風呂桶にためていた水をあらゆるところに使う。

飲用はもとより、体を洗う、食器を洗う
何よりトイレを流せたのは非常に大きい。

この経験から大きな台風が接近した際は
今だに風呂桶に水を予防的に溜めるようにしている。


夜になり、兄と連絡が取れた。
兄はどうやらそのまま高校で夜を明かしていたらしい。

母が夜中に車で高校まで迎えにいく。
2時間ほどで無事に何食わぬ顔で帰ってきた。

これでやっと家族全員が揃う。


頼れるは電気とネット。

限られた食料、燃料切れ間近の車、
そして目に見えぬ放射線。
一寸先は闇。

そんな状態でこの日も眠りについた。


次はそれ以降の記憶を思い起こしてみようと思います。

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