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ドクター・ストレンジ マルチバースオブマッドネス

 今回目が重要なテーマだったと思う。目というか視覚性。だからなるべくIMAXとか3Dで観るのが良いだろう。やはりホラー演出も秀逸で暗闇で未知に出会うことや音が音符という記号になって視覚化されることやマルチバースの色彩表現やアニメーション、CGを含む映像性、シュマゴラスやアガモットの目、天津飯みたいな三つ目に至るまで全て目(視覚性)が関わってくる。ちなみに記憶異常(−)なので観た事と言いたかった事がズレていたりするかもしれないので注意。

 で、詳しく解説するならばまず直視し難い現実。これはドクター・ストレンジもアメリカチャベスもワンダもそうだが、その状況を受け入れようと思えば思うほど抑圧してしまうか道を踏み外してしまう。ストレンジはかつての恋人が自分以外と結婚してしまうという現実を自分は幸せだと思う事で抑圧する。アメリカチャベスはマルチバースで生きるという苦難のために両親を死なせてしまった現実を思い出して感傷に浸る場合ではないと抑圧する。ワンダは少年期からの家族を喪う悲劇が積み重なって悪の側になる。マルチバースでは過ちが必須なストレンジもMCUの世界では善人なのに対してワンダだけがマルチバースの側に善人として存在している事が観客からすれば納得できないのだが、逆にそれを個人が決定できうるはずが無いのも事実だ(にしてもそこは正義の味方が正義感に満ち溢れ幸福を享受していても良いと思うが)。だから勿体ぶって登場するパラレルのヒーロー達も馬鹿と揶揄され惨たらしく死んでいく。
 
 次に夢である。ストレンジは夢で自分がヒーローらしからぬ決断をすること、ワンダは2人の息子に囲まれ幸せな時間を夢で過ごし、目覚めれば日々の孤独を思い出して悪夢に変わる。実は夢とは全てマルチバースでの自分を知覚している現象なのだがアメリカチャベスはマルチバース間を行き来できるという能力のため、夢を現実として直接経験する。なのでストレンジに裏切られたというトラウマを抱えておりMCU世界にやってきた時にストレンジとの関係性が一つの目的になる。勿論、ストレンジも同様。そして冒険を通して信頼関係を築いていく2人は現実と向き合っていく。アメリカチャベスは両親を死なせた自分の力をそうして受け入れる事でワンダを善に戻すことができた。ワンダは自らの行いが引き起こす結果を体験し、マルチバースの自己との同化を経験(ストレンジはそれができなかった)して世界の危機を命と引き換えに救う(悪の結果が死という倫理観は受け入れ難いが)。
 そして映画を観るということ。夢や妄想を具現化する理想郷がスクリーンには映し出されるが、子供時代の憧れだったヒーローが闇堕ちするリアリティを伴う非現実を否応なしに観せ「られる」ために回り道のように現実を体験することになる。観客はワンダの悲劇を観て苦しい気持ちになり、自分が死んで居なくなったマルチバースで愛する人と再会しているストレンジを観てあわよくば結ばれれば良いのにと思う。だが映画が選択する現実は当然そうはならず、ラストに主人公の仲間であるウォンが「マルチバースに行ければいいのにと思うが、この現実が1番良い、どんな苦難も感謝して受け入れる」(意訳)と語る。そしてストレンジは第三の目を開き、エンドクレジットを迎えてストレンジによって3週間自分自身を殴り続けるという理不尽な苦難を背負わされた偏屈老人は期間を過ぎて呪文が解けた後に、アザだらけの笑顔で止まった!と叫ぶ。怒りや憎しみが先行しない事に笑いがあるのだが、意外と直視し難い現実を越えるとハッピーな気分になれるのかもしれない。現実に生きる我々へのメッセージと取るかワンダの辛い物語よりもグロや興奮度の高い伏線回収や沸点の高まる音楽や映像美、スピーディな展開の方大きいんじゃないの?と取るかは人それぞれだろう。自分は後者だった。マジ最高にたのしかた。まあどちらにせよその時に観客は観「させられた」から観「た」に変わるのではないか。

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