<9月のお題>おもち、深海の魚、イノベーション。
紗希子は伸びすぎた前髪をアメリカピンで留めながら考え事をしている。仕事は単調でやりがいはないがノルマはあり、定時に帰りたいと思えばそれなりに真面目に働かなければならない。
しかし紗希子は真面目に働くほど、真面目ではなかった。忙しなくキーボードを打つ手と画面を見張る目以外は働く必要がない、そう気が付いてからは頭の中では手元にある書類とは全く関係のないことを考えているし、
背後から上司の薄っぺらい熱弁が聞こえてくると、すぐさまノイキャンで蓋をする。
デスクでは常に靴を脱いで裸足になり、足の下に水枕を置いている。爪先で水枕をたぽんたぽんと弾ませ、そんな時は深海の魚として生きている自分自身を空想している。
仕事や人間関係に不満があるわけではなかった。退屈だったのだ。
毎日勤務時間8時間、帰宅してからの8時間の暇を潰さなければならない。紗希子は寝ることが好きだけれど、睡眠時間は8時間と決めている。無理に睡眠時間を長くしようとすると体調を悪くするからだ。つまり16時間は起きていなければならない。
帰宅してからの暇は割と容易に潰すことができる。出来るだけ工程の多い手間のかかる料理を作ったり、全身の毛を毛抜きで一本ずつ抜いたり、洗濯物を手洗いしたり、やれることは数多くある。ただ、それさえ飽きてしまうことがある。そういう時は理解できない言語の映画を見るようにしている。紗希子は耳から意味が入ってくることが不快に感じることが多く、映画は単なる映像と音として楽しみたい。だからフランス語やスペイン語、韓国語や中国語の映画を選んで見ている。映画はもちろん長ければ長い方がいい。ただ、日中モニターのブルーライトを浴び続けている目にはあまり望ましくない。目と眉間の間、肩や首がこり、頭痛がしてきたりする。だから止め処無く映画を見続けるわけにはいかない。体が疲れ切っている時は湯船の中に頭ごと体を沈め、息を止める。限界がきたら泡を吐いて湯から顔を出し、呼吸してまた沈むを繰り返す。自宅にプールがあったなら、どんなにいいだろうかと思うこともあるが、手取り16万円程度の稼ぎである紗希子に叶うはずもない。
一番厄介なのは休日である。手と目はやることがある平日の日中と違い、体の全てを使って16時間暇を潰さなければならない。一番良くやるのは「大騒ぎ瞑想」だ。社会人になってすぐの頃、会社の研修で参加したマインドフルネス瞑想をヒントに紗希子が考案したものである。
瞑想前に大騒ぎをするというだけのものだが、大騒ぎした後に急にじっとすると、鼓膜が脈打ち、心臓は喉を押し上げ、体の中の様子をまるで目で見ているかのように観察することができる。やり方は簡単で、まず30分間、大音量で音楽を聴きながら激しく踊り、その後30分間は坐禅を組みじっとしている。それを3ターン繰り返すのだ。
紗希子が特に耐え難いことは、意味が体の中に入ってくることだ。だから本を読んだり、母語の映画やドラマ、アニメを見ることはまずない。
いっそ、外国語圏に移住したいと思うことはあるが、それもまた今はまだ現実的ではない。お金が1000万円貯まったらタイに移住したいと考えて貯金は続けている。月3万円ずつの貯金を20年間続けて720万円、積立nisaで年3%の利益が得られたとして20年で1000万、つまりあと18年かかる計算だ。
だけど、地球温暖化が進み18年後にタイはどうなっているだろうか。気温はどのくらい上昇し、海面はどのくらい上がっているだろうか。浅海に住む生物や水面に生きる魚族はその水温に適応できているだろうか、熱波から逃れるように、深海を目指して進化し続けているのだろうか…。
人類は永遠に空を見上げていて欲しい、と紗希子は願う。月や火星にロケットを飛ばしてもいいけれど、深海だけは目指さないでほしい。マリアナ海溝は永遠に光が届かない深海であってほしい。熱波から逃れてきた魚たちが群をなし、そこに提灯あんこうがぼんやりとした光を灯す。この世界で唯一の希望の灯火を。
紗季子の独白
地面が揺れる。夜眠る時小さい揺れを感じると、もっと揺れろと期待する。潰れてぐちゃぐちゃになって死んでもいいし、死ななかった場合は、みんな同じ場所で同じものを食べて助け合いながらゼロから始められるから、地震に憧れる。
「不謹慎だね」
地面の上で生きていたくないの。かと言って人間すぐには進化しない。どうやって魚族と共に海中生活がおくれようか。せめて海辺で暮らしたらどう? うん、そうだね。想像してみるね。沖縄にしようか。沖縄の海の側の家を買って、サトウキビ畑で働くか、煙草の葉っぱの農家で働くか。わたしが男だったら漁師でもよかったけれど、残念ながら女は雇ってもらえそうにない。
「イノベーションだね」
毎日釣りをして、その日食べるものを自給自足で補って生きていく。持ち家なら有りかもしれないね。今すぐ家を買えるお金はないから、テント暮らしはどうだろうか。暑ければ海や川で泳げばいいけれど、冬はどうだろう。人間も冬眠が必要だよね。冬眠するためには夏の間に食料を備蓄しないと。一人だと効率悪そうだよね。だから稲作だったのか、備蓄と村社会に結局回帰するなら、やっぱり一年草でありたかった。巡らなくていいから、もう、すぐに死んだほうが効率よくない?
「効率よく生きたい?」
そうだね。人間は効率が悪い生き物だと思う。下手すれば80年も生きてしまうなんて、長すぎやしない? スピはよく、宇宙から見ると個体の境目はなく、ひとつながりの命であるだとか、分かったように量子力学の話なんかするけれど、であるなら、この体がわたしだけによって維持されているわけでないのなら、尚更無責任にわたしはわたしを終えたいと思う。長すぎる人生を生きるために稼ぎ、稼ぐために喜びのない仕事をし、早く終わることだけを切望しているこの人生を。
「聞いてられない」
そう。そう言われる。だから独白してるの。誰かに言えば電話に出てくれなくなる。ラインをすれば未読になる。みんな死の話をしたくないの。死を意識したくないの。毎日せっせとスマートフォンをいじって、動画を見て楽しいと思っていたいの。死ぬ間も惜しんで笑っていたいの。
紗希子は希死念慮があるわけではないが、今すぐ死んでも別に構わないと考えている。
もし若くして死ぬなら、死ぬ時は雷に打たれて死にたいと思っている。激しく雨が打ちつける嵐の日に高台にある公園に登って、芝生の広場の真ん中で天に向かってアメリカピンを突き刺す。運よく右手の先端にあるアメリカピンに落雷し、右手から全身に電流が流れると、体はおもちのように膨れ上がり、心臓が止まる。その時、きっと体の中の全ての臓器、細胞が喜びに満たされるだろう、そんな想像をしている。
<了>
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