待つことができた日
2022年12月31日 執筆
街灯にもたれかかるようにして、ひとりの女が立っている。日が沈みあたりは薄暗く、二対の街灯が駅前を白々しく照らしている。ときおり改札から出てきた数人の人が通り過ぎていく。ベビーカーを押した若い女が信号待ちをしている。交差点の脇に停まっている黒いワンボックスカーはもうずっとそこに停まっている。信号が青に変わり、こちらに渡ってくる人たちの何人かが駅に向かい、ほとんどの人たちは駅には向かわずに薄暗い通りに抜けていった。駅前の不動産屋のドアには謹賀新年のポスターが貼られ、ひとけはない。隣接するパン屋のシャッターは下り、クリスマスリースのような洒落たしめ縄が飾られている。女は依然、街灯にもたれかかるようにして、目の前にある喫茶店のシャッターを見つめている。午後六時前、張り紙はないが年末のために休業しているのだろうと女は思う。隣の小さな居酒屋だけが、提灯にあかりを灯していた。中の様子は見えないが営業しているようだった。
ここに来る前に、女は自宅近くの喫茶店で二時間あまりの時間を過ごしていた。持ってきた小説を数行読んでは左手首にはめた腕時計に目を落とし、ひとくち珈琲を口に含み、持て余す。煙草を吸って、煙を吐いて腕時計を見る。窓の外に目をやる。あと二時間。あと一時間。ここから待ち合わせの場所までは歩いて二十分程。わざわざ一駅先の喫茶店を指定したのはあの人だった。待ち合わせをしている喫茶店でまた珈琲を飲むのだろうと思うと、注文した珈琲はなかなか飲み進まずに冷めていくばかりだった。
女はまた文庫本を開き、行間の余白をただ見つめている。しばらくして、かばんからスケジュール帳を取り出す。開いた12月のページは水分を含んで紙がでこぼこと波打っていた。ところどころ鉛筆で書き込んだ文字を消した跡が残っている。仕事の予定の多くは消しゴムで消されている。ほとんどの日付の上には星型の赤いスタンプが押されている。女は一日の終わりに「やったね」「がんばったね」の印をスケジュール帳に捺印している。12月21日の日付にはスタンプが押されていなかった。女は思い返す。ちょうど一週間前の水曜日。あの人にスマートフォンを預けた日。一週間後の夕方六時、あの喫茶店で会おうと、約束をした日。
ページをめくり、11月を開く。11月21日不調、11月22日生理一日目、11月23日生理二日目……。あの日は生理痛がひどく、冷えるといけないからとあの人が貸してくれた青いガウンを羽織り、リビングにある石油ファンヒーターの前にしゃがみこんでいた。女は気にもしていなかったことだったが、あの人は、床にガウンが付くと汚れるからと、女に椅子に座るように言った。女が、床が汚れてると思わなかったからと言うと、あの人はティッシュを水道の水で湿らせてさっと床を拭い、なめれる? と女に言った。数日後に、あの時はごめんね、実は、大事なガウンだったんだ、妻にプレゼントした物だったから……とあの人は言った。
女は時々、スケジュール帳の後ろにあるノート欄に文章を書き記している。日記というわけでもなく、誰かに見せるために書かれた文章でもなかった。走り書きのようなものがほとんどで、あるページには「今日のあなたの言葉が、明日には本当になっているかもしれないと、信じた」と、薄い鉛筆で記されている。
女は今日の日付を見つめる。「28日夕方六時 喫茶店」と鉛筆で予定が書き込まれている。その先の日付には何も記されていない。
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12月1日「やったね」
はいやいいえ、○や×では到底言い表すことができないというのに、問診票に一体何の意味があるのだろう。女は紙を裏返し、一息にペンを走らせる。
わたしの中にある汚い感情を押さえ込むことができず、喉の奥が詰まるような苦しさを感じます。こういう時は世界平和を祈ります。そうしているわたしは正しい、と思い込みたいからです。世界のことも、平和のことも、何一つ思っていません。苦しさを薄めるために処方される薬も、朝目が覚めた時の明るさも、何の役にも立たない時には、偽りの祈りで誤魔化してしまいたくなります。わたしはわたしのことしか考えていません。誰かが家の前を通ればいいと思い、夜中に玄関の扉を開けたままにして、何本も何本も、そこで煙草を吸いますが、見知らぬ人が数人、俯いて通り過ぎていくばかり。誰か、ではなく本当はあの人を待っているのです。
苦しさを乗り越えるには、耐えることしかできないのでしょうか。悪い行いを思いつくたびに、首を横に振ることしかできないのでしょうか。憎しむことが最善だとは思わないのに、憎しむことでしか、離れられないのでしょうか。いっそ、喉を掻き割いて、突き刺さる何かを取り除きたい。不発弾から信管を引き抜くように。
朝、女は大通り公園を通り抜けようと信号待ちをしている時、お散歩中の碧(あおい)ちゃんを見た。ピンクの帽子に深緑の上着を着て、保育士さんと手を繋いで歩く、小さな碧ちゃんを。碧ちゃんはどこを見ているのかわからないぼんやりとした眼差しで前を向いて歩いていた。女は碧ちゃんを見る時、マスクの中で自然と口角が上がる。かわいくて、小さくて、まだたった2歳の、あの人の子供。
あの人の家には、今も子供の痕跡が色濃く残っている。玄関から入りすぐ右手にある階段を登ればその先に木製のベビーフェンスがあり、リビングにはテーブルの付いたベビーチェアが、食器棚には小さな持ち手が二つついたプラスチックのコップが、風呂場には動物たちがくるくるとまわるカラフルな水車が、トイレのドアには丸や三角のシールが、庭にはアンパンマンの押し車が置かれたままになっている。リビングを挟んで対面する二つの扉。その一つはあの人の寝室、もう一つはずっと閉ざされたままとなっている、あの人の奥さんの部屋……。
まっすぐに歩いていくと、横断歩道の先に海が見える。海は吸引力がある。特に用事はないけれど、自然と足はそちらへと進む。海に用事があるとはどういうことだろう。釣り人でもない限り、海に用事があることなんてあるのだろうか。女が今日用事があったのは海ではなくメンタルクリニックだった。診察を終えて、ただ時間を潰すために歩いている。
横断歩道を渡り、芝生の上を歩いて海の方へ近づいて行く。行き交う人たちの多くは観光客に見えた。制服を着た学生の集団や、大きなキャリーを引いている年配の人たち。柵の向こうの海に釣り糸を垂らしている老人。みんな海に用事があって来ているように見えた。柵から下を覗き込むと階下に海が見える。桟橋まで歩けばもっと近づくことができるかもしれないが、めんどくさかった。海は手が届きそうなところにあるけれど、さわれそうにない。女は隙間を探している。ここには隙間がない。居心地が悪くなり、女はゆっくりと歩き始める。
遠く見えないところにいる時は平気なのに、目の前にいる時の方が隔たりを感じるのはなぜだろう。触れられる距離にいるのにさわれない時、やっと触れられた時に感じる、絶望感。これ以上、どうすることもできない。遠くからぼんやりと見ていたい、と女は思った。大丈夫、あの人はいつも青い服を着ているから、すぐに見つけることができる。碧ちゃんの青、あの人の青。青花白磁を思わせるあの人の奥さんの腕のあざの青。柵の向こうの空の青、それとも、海の青。
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あの人は出会った頃からわたしにとって、とても頼りになる人でした。弱音を吐くこともなく、困ったことがあればいつも助けてくれる頼もしい存在でした。酒に強く、酔っているところは見たことがなかったけれど、あの日は違っていました。子供に会うことができなくなり、15キロも痩せてしまったあの人は、逃れようのない苦しみの中にあり、酒に溺れていました。
しばらくして、風に当たってきますと言って家の外に出たあの人は、軒先にしゃがみ込んでいました。帰れますか? 立てますか? 帰れます、大丈夫です。それでも立ち上がらないあの人の横にしゃがみ込んで、どれくらいの時間がたったでしょうか。うつむいたまま、目線だけをこちらに傾け、あの人は言いました。今日泊まってもいいですか?
あの日、あの人は二階のわたしの部屋に上がるなり、冷たい床に突っ伏してそのまま寝てしまいました。布団をかけてあげても、暑いのか、すぐに蹴飛ばしてしまいます。わたしは自分のベッドに上がり寝ていたのですが、あの人は夜中に突然立ち上がり、寝ぼけて立ち小便をしてしまいました。床も布団もびしゃびしゃになり、あの人をベッドに引き上げて、タオルで床を拭きました。
神様に、祈ることはできない。わたしは間違った感情を抱きましたか?
12月8日「がんばったね」
「もものあたりをさすってください。片手でも、両手でも構いません。膝のあたりでも大丈夫です」
真っ白な半畳ほどのカウンセリングルームで、透明のビニールシート越しにカウンセラーは言う。白衣をまとったカウンセラーの中年の女は茶色い髪を束ね派手なアイメイクをしている。口元はマスクで隠れて見えないが、微笑んでいるようだった。
「過去や未来、または他者や遠いところにいる人に気持ちが飛んでしまった時、今ここに自分を引き戻すんです。手のひらの熱を感じますか? ももの感触を感じますか?」
女は頷き、ももを両手でさすり続ける。柔らかい生地のスカートが擦れる音が狭いカウンセリングルームに響く。先生、もし手が、ももがなくなったら、どうやってわたしを引き戻したらいいんでしょうか? カウンセラーは苦笑いを浮かべながら「匂いでもいいんです。アロマとか、何か自分の好きな匂いを嗅いで、感覚がここにあることを感じるんです」鼻も効かなくなったら?
「あなたには今手も足も、匂いを嗅ぐことができる鼻もある。なくなってしまうかもしれない、と、未来に気持ちがいってしまったら、今ここに戻るんです。今、確かにここにあるからだに触れて」
じゃあ、煙草は? 煙草を吸えば口の中が苦い。わたしは今ここにいる。カウンセラーは小さくため息をついてから、透明のビニールシートの向こうでペンを走らせた。女は机の下に手を潜らせ、腕を目一杯伸ばしてかすかに白衣越しにカウンセラーの膝に触れる。カウンセラーは驚いてからだをのけぞらせ、その拍子に膝を机の裏にぶつけた。
ねえ先生、からだがなくなったら、どうやってわたしを引き戻したらいいの?
女がカウンセリングルームを出て、空いているソファに腰掛けると、隣に座っている若い男が嗚咽していた。ランダムなリズムで、喉に引っかかっているものをえぐり取るように声を出し、泣いている。初めてここに来た日のことを思い出す。女もこうやって、ここで泣いていた。
何をそんなに悲しんでいる?
何も怖くない 何も怖くない
大丈夫 大丈夫
そう、言ってあげるだけで十分だっただろうのに、どうしてあの時、わたしたちは抱きしめあったのだろう。それをその日限りのことにしてしまえなかったのだろう。
神様に、祈ることはできない。わたしは間違った感情を抱きましたか?
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12月14日「がんばったね」
「眠れないですか。お辛いですね。そうですね、ちょっとワークをしてみましょうか。簡単です。ソファにもたれて、手はだらっとして、体を緩めてリラックスしていてください。目を瞑って、思い浮かべてください。今、あなたは二週間休暇をとっています。海辺のリゾート地にある高級ホテルの一室でこれから毎日を過ごします。支払いはもう済んでいます。ここで毎日、寝たいときに寝て、食べたいときにレストランで食事ができます。散歩をしたくなったら、ビーチに行きます。プライベートビーチで、外部から来る者は誰もいません。とても安心できる場所です。あなたは砂浜の上に寝そべります。どうですか、空はどんな色ですか?」
……蒼です、蒼い夜空です。
「夜空ですね。星が輝いています。満天の星空です。波が押しては引いて、押しては引いて、一定のリズムで打ち寄せます。波の音が聞こえます。ざざーん、ざざーん……日中の日差しが砂を暖めて、背中はじんわりと温かいです。
さあ、目を開けてください。どうですか? リラックスできましたか?」
あの人は、君が側にいると眠れないんだと言っていた。君に限ってのことではなく、誰とでもそうなんだよ、棺桶の中で眠りたいくらいなんだと。女はと言うと、その逆だった。まだ子供の頃、よくお母さんのベッドに潜り込んで、冷たい足をくっつけては怒鳴られ、蹴り飛ばされてベッドから落ちていた。仕方がないからベッドとたんすの隙間に布団を敷き詰めて、そこで寝るか、居間に布団を敷いて寝ている父の横に丸まって眠った。自分の部屋で眠ることが苦手だった。
わたし、冷え性だから、あなたのことを温めることはきっとできないね。あなたを冷やしてしまうだけだったかもしれないけれど、そばにいると、触れていなくても発せられる熱を感じて、わたしは安心していたの。
✳︎
12月21日
あの日はいつになく、和やかだった。深夜1時過ぎ、モールを端から端まで歩いて、結局引き返して入ったチェーン店の居酒屋で、あの人は何杯もホッピーを飲み、女は熱い緑茶を飲んだ。
寒いから、と女が持参していたうさぎ柄の水色の膝掛けを見て笑っていた。ちゃんと食べてる? 何かお腹に入れたほうがいい、ほら、お茶漬けを頼もうか、鮭がいい? 梅? 明太子? あの人はずっと喋り続けている。いつもと違う朗らかな様子だった。灰皿を、と呼び止めた店員がポテサラと聞き間違えて二人して笑った。こんな風に笑い合えるのは久しぶりのことだった。
あの人は、すんでしまったことはもう仕方がない、と言った。それよりも、これからのことを考えよう。年が明けたら弁護士さんに会ってほしい。使うかどうかわからないけれど、今日の会話も録音しておいていいかな? 協力してくれるよね、碧ちゃんのために。
あの人はもう、女に感情を見せなかった。口角を上げてずっと微笑んでいる。深夜にインターホンを鳴らし、会いに行ってしまったことを怒らなかった。全てを奥さんに話してしまったことを、あの人はもう責めなかった。君が健やかでいられることがまず大切だけど、連絡はしないでほしい。分かるよね? 親権がかかっている大事な時だから。弁護士さんに会う時にまた連絡するから、もう、電話もラインも、送らないでね。
女の目から涙が落ちた。女は、できない、と言った。そうしたくても、どうしてもできそうにない。女はスマートフォンの電源を落とし、あの人に差し出す。
しばらく預かっていてほしい。
わかったよ、そうだね、とりあえず一週間、預かろうか。そうした方が心が穏やかでいられるのなら。うん、どうだろう、ちょうど一週間後、12月28日の夕方6時に、このあいだ行ったあの喫茶店で会おうか。どう? 安心できそう?
あの人はスマートフォンを受け取ると、カシミヤのコートの内ポケットにしまい、かわりに黒い手帳を取り出し、ボールペンで予定を書き記した。
あなたは
青い服を着る
あなたの世界に色を付けた存在は、小さな子ども、あなたの息子
あなたは悪い人に見えない
あなたは善い人
妄想が現実になる
夢か現か、酒に酔っているのか、
それとも、
覚めているのか
何もかも曖昧で、
わたしとあなたの記憶するものが
すれ違う
✳︎
文庫本は終わりまで読み進めることができないままかばんにしまい、冷めた珈琲を半分ほど残して女は店を出た。女は待ち合わせ場所へと向かう。気持ちがはやり、足早になる。すでにあたりは薄暗く、空には蒼白い月が浮かんでいる。かばんの中には持ってきた文庫本、スケジュール帳のほか、スケッチブックが入っている。この一週間描いていた水彩画を見てもらおうと思い用意してきたものだった。女はあの人に、色彩の天使を見つけてもらいたいと思っていた。女の描く絵をじっくりと見て、このあたりに天使がいる、と笑ったあの日のように。いつだったか、数枚の水彩画を見ながら、あの人は絵の余白を指さして、このあたりに天使がいる、と言った。女は詳しく説明をして欲しがったが、また今度ね、とあの人は笑いながらスケッチブックを閉じた。あの人は、碧という名を息子に付けたあの人は、色彩の天使をいつも探している。あの時女がそう思っていたことを、あの人は知らないだろう。
女はふと思い出した。あの人が酔って家にやってきたあの日、明け方にはっきりと目が覚めたあの人が、昨日はハンマーや重機を使って解体工事の仕事をしていたから、鉛筆も握れなくなってしまったと、ベッドからだらりと右手を投げ出していて、女は手をとり、マッサージをした。あまり力が入りすぎないように、ベビーオイルを垂らし、ゆっくりと両手で包み込むようにして手のひらをマッサージしていると、あの人は優しく微笑みながら、天使みたいだ、とつぶやいた。
女はポケットの中に手を入れてピンク色のライターを握りしめる。あの人が煙草に火をつけようとして落としたライターが嘘みたいに真っ直ぐ床の上に立っているのを見て、いいことがあるねきっと、とくれたライターを、女はお守りのようにポケットに入れている。
この一週間、スマートフォンがなくとも、連絡することは可能だった。公衆電話から電話をかけることも、ノートパソコンを開いてメールを送ることも、あの人の家のインターホンを鳴らすことも、女はもうしなかった。期日きっちり、待つことが、できた。女はできたのだと、思っている。鉛筆で書かれた予定を消しゴムで消すこともなく、スケジュール帳にスタンプを押すことができた。あの人が嫌がることをしなければいい、こちらから連絡をしなければいい。あの人が連絡をくれた時に会えばいい。そうすればきっといつかまた、温かい家に招き入れてくれる日が来るだろう。お湯をためたバスタブに入浴剤を入れて、タオルを用意してくれるだろう。夜食に何が食べたい? と聞いて、手早くナポリタンを作ってくれるだろう。
本当に、してもらってばかりだったのだから、これからはもっとあの人が喜ぶことをしたい。あの人が喜ぶこと、あの人が願っていること。子供と暮らせる日が来ること……。
あの人はいつだったか、言っていた。碧ちゃんは取り替えが効かないんだよ。
女はその時も、自分のことしか考えていなかった。わたしは? わたしは、取り替えが、効きますか?
神様に、祈ることはできない。わたしは間違った感情を抱きました。
最善を願うなら。最善を、願うのなら。
✳︎
街灯にもたれかかるようにして、ひとりの女が立っている。指先はかじかみ、つま先は靴の中で丸まってゆく。女は横断歩道のそばにある公衆電話に目をやる。電話をしてみようか。電話番号はもうすっかり覚えていた。腕時計を見る。午後六時十五分。
その時、後ろから男の声がした。女の名前を呼んでいる。振り向くと、焦茶色の中折れ帽をかぶった見知らぬ男が立っていた。小柄でぎょろついた目をしているその男は、もう一度女の名前を呼んだ。呆然としている女に、男はポケットから取り出したジップロックの袋を手渡そうとするが、女の手は動かない。
「これを届けに来ました」
女は差し出されたジップロックに視線を落とす。先週、あの人に預けたはずのスマートフォンが密封されている。どうして、来れないんですか、用事ができたんですか。女は男の目を見ずにつぶやくように声を出す。男は「離婚調停中だから、もう会えないと言っています」そう言って、スマートフォンの入ったジップロックの袋を女に押し付けた。女が両手で袋を受け取ると、男は横断歩道の方へとゆっくりと歩いて行った。震える手でポケットに袋を押し込んだ時、女のポケットからライターが地面に落下した。女は依然、その場所に立ちすくんでいる。
<了>
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