灰なめる
太田るなシャワ編集発行によるジン「あじん」掲載
灰なめる
線香は、ちょっとしょっぱくて、シャリっとしているような、ざらっとしているような、舌の上で滑らかに溶けるような、独特の食感をしている。
母はいつも、線香の灰を小さいタッパーに入れ、鞄の中に忍ばせていた。それを電車の中でも躊躇なく指でつまんで舐めるから、加奈子は小さい頃から、そういうものだと、つまり、線香の灰は食べられるものだと疑いもなく思っていた。
線香は食べられる。実際に母も加奈子も食べていたのだから。しかし、そういうことではなく、普通の家庭でも、寺院に生まれても、線香を食べることは普通ないだろう。
大人になってから線香は仏様の食べ物だと、ある僧侶が教えてくれた。仏様は香りを、煙を、召し上がるのだと。
母はよく、私は透明だから、宇宙から心が見えているのだと言っていた。あらゆる宗教にちょっとだけ手を出して、最終的には真言宗の得度を受け、仏門に入った。
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加奈子の実家の門扉には「仁瞳教会」の看板が掲げられている。加奈子が高校生の頃からだ。飾り彫りが施された木製の額縁に納められたA3サイズほどのそれは看板というよりも遺影のような形姿だった。仁瞳(じんどう)、は母が得度を受けた際に改名して付けた名で、母はいつも漢字を説明する時、仁徳天皇の仁に瞳(ひとみ)、と言っていた。いかにも怪しいこんな門扉から出入りすることが嫌で、加奈子はいつもガレージから出入りしていた。
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小学生の頃、加奈子は給食のない土曜日の昼はいつもコンビニで買ったメロンパンを食べていた。正午過ぎに家に帰ると、いつもダイニングテーブルの上に五百円玉が置かれていて、一目で母の字だとわかる、丸っこい字のメモが添えられていた。
「かなちゃん なにか すきなものをかってたべてね! ママより」
加奈子はその五百円玉を握りしめて家から走って5分ほどのところにあるローソンへ行き、そこでメロンパンを一つ買い、お釣りを持ってローソンの並びにある書店で漫画雑誌かコミックスを一冊買うのが楽しみだった。
ローソンの裏にある三角公園のベンチでメロンパンを食べながら漫画を読み、食べ終わるとブランコを漕いで遊んだ。遊び飽いたら家に帰って万年炬燵でごろごろしながら漫画の続きを読んだ。
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家を出てから二十年以上になる。以前、友人の子どもを時々預かっていた。8歳の女の子で、名前はひいろちゃん。両親が夜勤のある仕事をしていた。それで時々、私はひいろちゃんを一晩預かり、ジョナサンとかデニーズに連れて行って晩ごはんを一緒にたべた。
ある時、ひいろちゃんが
「今度かなちゃんに、お袋の味つくったるわ」と言った。
「お袋の味?」
学校で覚えた言葉なのか、祖父母から聞いた言葉なのか、8歳児らしからぬ発言にちょっと笑った。
「マカロニきなこ、つくったる」
「マカロニきなこ? たべたことないなぁ、どんな料理なん?」
それは保育園で出されていたおやつだそうだ。ゆでたマカロニに砂糖ときなこをまぶしたもので、ひいろちゃんはそれが大好物だったそうだ。
「甘くて、もちもちして、おいしいねん」
ひいろちゃんにとって、お袋の味は保育園で出されるおやつなのか、と一瞬f妙な感情が湧いたが、そもそも、お袋の味とはなんなのだろう。
懐かしい味、だとすれば、私のお袋の味は、袋入りのメロンパンか、もしくは、タッパーに入った線香の灰か。
五月の鯉
鯉が絡まり合っている。大岡川の中空に、欄干から四方を紐で繋がれた鯉のぼりが整然と列をなしている。
赤、青、黄色、緑、色とりどりの鯉のぼりは等間隔に間をあけて、川沿いの欄干から伸びるロープで、大きく開いた口の上下と尾びれの上下が結ばれ、均等に配されている。
五月の強い風に吹かれて、大きく口を開けて膨らみ、ねじれ、それぞれが四方を紐で縛られているため、隣り合うものとからみ合うことはなく、そばでひとりもがいている。
飛べそうに強い風に吹かれながら、もがいている。一向に前にも後ろにも進むことなく、その場で捩れながらたなびいている。
花の時期を過ぎた新緑の桜の樹はどっしりと根を下ろした太い幹から伸びる枝を川面の方に垂れ、折れてしまってもいいと言わんばかりに吹く風に身を任せている。
風に揺れる水面は朝の光を反射してきらめいて、目が眩んだ。鯉が大きく口を開けている。
一瞬ぴたりと風が止み、高架線を走り抜ける京急電車の轟音が鳴り響いた。またいっそう強い風が吹く。
鯉はもう、抵抗することを止めて、捻れた身体をロープに巻きつけていた。
また風が止む。鯉はうなだれて、ぺたんとしおれていた。
そういえば5月に鯉をたべたことがある。もう10年以上も前のことだ。
佐賀県有田町の龍水亭という立派な料亭だった。そこで鯉のあらいをたべた。まだ二十代だったわたしには不釣り合いな堂々たる見世構えで、当時の上司が連れていってくれた。その人はちょうど父と同じ齢だった。
床の間と飾り棚のある趣のある和室の縁側からは庭の生簀で泳ぐ鯉が見えた。そこで一週間真水に晒されて、泥抜きをするのだそうだ。
鯉の味は覚えていない。
あの人は今どうしているだろうか。
甘い水
「彌勒様 わたし来世も螢ですか」 俳人、山蔭石楠の句より引用
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その日は雨だった。
黄色い布地に水色の花模様が入った北欧風のテキスタイルが気に入っていた傘をタクシーの中に忘れてきてしまったことにエレベーターの中で気がついたが、あなたには言わなかった。エレベーターは高速で34階へと上っていく。
3435室に入りカーテンを開くと、見下ろすロープウェイの光が行き交う様子がまるで蛍のようだった。
あなたはコンビニで買ってきた日本酒をビニール袋から出してテーブルの上に置き、手慣れた様子で引き出しからグラスを二つ取り出した。私はベッドのふちに腰掛け、あなたは椅子を引いて座り、グラスに注いだ日本酒で私たちは乾杯をした。
あなたはおもむろに日本酒を口に含み、私の口の中へ液体を流し込み、そのまま互いの舌を絡め合いながら、あなたが私に覆い被さるようにして、ふたりはベッドに倒れ込んだ。あなたの熱を持った身体に圧され、私は白いベッドカバーに埋め込まれるような姿勢になる。両手を伸ばしてあなたの背中に触れると汗で濡れていた。あなたの唇は私の首筋に触れ、舌を這わせるようにして左の乳房の輪郭をなぞる。右手は右の乳房を優しく撫で、その柔らかさを感じているようだった。
「噛んで」
私の両手はあなたの頭を包み込むようにして、汗ばんで濡れた頭皮と髪を撫でている。
私の言葉に喚起され、あなたは強く私の左の乳首を噛んだ。
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あなたと会うようになり、一年ほどになる。初めの頃は定期的に連絡があり、検索して調べてくれた評判のいい店を予約して食事をしてからタクシーを呼び、ホテルに泊まる。朝、またタクシーを呼んで私を乗せ、別れのハグをして、10日ほどするとまた連絡が来る。その頻度は半月ごと、ひと月ごとになっていった。
あの日は正午過ぎに急にあなたから「今から会えないか」と連絡があり、慌ただしく準備を整えてあなたの借りているオフィスに向かった。昼間に連絡してくることは珍しいことだった。
「今日は仕事が終わらなくって、2時間しか時間がないんだけど、2階でちょっと休まない?」
手早くセックスをして、じゃあねと別れる。私から連絡することは一度もなかった。初めからそういう関係を私たちは築いていた。
連絡が来なくなり3ヶ月が過ぎた。
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期待したくない
もうしたくない
待ちたくない
痛いところは見えない
誰にも見えない
もうこの”気持ちいい”は誰にも見えないところにしまっておきたい
惨たらしい感情をもう隠すことはできない
見限られる前に
私が
見限る。
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夕方歯科医院で打った麻酔が夜になってもまだ効いていて、お腹が空いてパスタをたべた時に唇を噛んでしまった。痛みはなかったが血の味がした。痺れた唇でたべたリングイネは味はするが美味しくなかった。
その夜、初めて私からあなたに連絡をした。
〈了〉