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賭けよう、発狂するほどの喜びを 上

外に出ると、太陽が傾き、高層ビルの地平線バーチャートをじりじりと焦がしていた。空の上の方では厚ぼったい雲の塊が横たわり、ただでさえ圧迫感のある街の空に蓋をしている。
環境課庁舎の裏手から車通りの少ない幅広の道に向かうと、そこで自動運転の車両がすう、とドアを開いて出迎えた。

「六枷さん、いりますか?ゴマ団子チーマーカオ
振り返る。黒髪がふわりと広がり、頭のアンテナが鈍くきらめく。深海の瞳の女、祇園寺蘇芳ギオンジスオウが、香ばしい揚げ菓子を爪楊枝の先で揺らす。
――六枷霧黒ロッカムクロは少しだけ首を動かし、柔らかく微笑んでから首を横に振る。猫の耳介がふるふると揺れる。
蘇芳はなめらかに奥の席へと座り、それをじっと見ながら、六枷が「では」と会釈をする。後ろにずっとついてきていたのは監視のためだったらしい。それならそれでいい。

蘇芳は車のシートに身を沈める。到着まで少し時間がありそうだ。アウトフィット・クラブのメニューを確認しよう。と彼女がレストランレビューのSNSを回遊していると、割り込みで吾妻環境課の求人広告が、続いて吾妻ブロックの住宅広告が流れてくる。スキップのボタンが表示され、朗々とした語り口、女性めいた合成の声が再生される。

「共に良い環境を作りましょう」
「環境課はブロック内の治安を維持し、インフラ整備・重力汚染など生活環境の問題に対応するための機関です……」

――そう。表向きは、そうなっている。スキップ。

「吾妻ブロックは人口1000万人を超えました。この吾妻は汚染災害を乗り越え、高度に、コンパクトに発達した都市です。電脳の普及によりその生活は豊かになり、AI技術と脳の融和は様々なビジネスと娯楽の機会を発生させました……」

スキップ。キリがない。SNSアプリを導入するか、データベースを購入した方がいい。

現実では、灰色のセダンが吾妻ブロックの中ほどを進んでいく。車は一度だけ、ローレルの声で盗聴プログラムの取り扱いについて音を発したが、それきりで静かになった。控えめな走行音と後部座席のほんのりとした振動に包まれる。細かい雨がガラスにへばりついて、そびえ立ったビル群の輪郭を融解させていく。

祇園寺蘇芳は未だ再生されている広告とSNSの電脳タブをフォーカスから外し、今回の仕事について説明された最初の視聴覚記録を展開した。

暗転。再生。
――……
――――……

『結論を先に伝えましょうか?』背筋の凍るような声。隠岐衿奈カクレギエリナのインタラプト通信。
環境課わたし達は重力災害を防ぐため、比良坂一切ヒラサカイッサイを自然な形で死なせ・・・たい。
ところが彼は身を隠し、脳カジノの見物にしか外出しない。下手な捜索は環境課の首を絞める。表向きカジノを摘発された比良坂一切の自殺という形で事を終わらせるためには、潜入を行い彼の側近へ盗聴器バックドアの取り付けを行う必要がある。
それをする。祇園寺蘇芳、あなたが。できますね

明るい灰色のタイル、敷き詰められた毛足の短いカーペット、すりガラス越しの青白い蛍光灯の光。
等間隔に並ぶ過剰な量の監視カメラが、通り過ぎた六枷の華奢な足元を追い、小柄な背中が見えなくなるまで音もなく回転する。蘇芳がその様子を別の監視カメラの視界から覗く。この廊下の姿は病院のようでもあり、また刑務所のようでもある。

「衿奈チャンの言った通りダヨ。これが今回死なせる対象サ」
比良坂一切。顔写真に赤文字のGUIで名前が記される。

死なせる――超法規の暗殺処理。
より大きな犠牲を防ぐために市民の命を選択して切り捨てる。
これが環境課の正体。

祇園寺蘇芳がこの裏側を知ったのは、彼女が逓信省のスパイとして環境課に諜報活動を行っていた時期だ。それは臓器くじのようなもので、ひどく合理的な機能だった。
その片棒を担ぐ番が来るとは。理由は聞いていなかった。ほとんどの課員さえ知らないこの仕事、六枷とその後輩の専業であるはずなのに。

「蘇芳チャン、環境変動値観測システムピカレスクについてどこまで知っているカネ?」
合流した祇園寺ローレルは灰色の髭を撫で、振り返ってそう問いかける。
「大量のビッグデータを変数として扱い、未曾有の災害を察知する、天気の代わりに出来事を予報するAI。と覚えています」
フム。ローレルが頷く。あるいは祇園寺蘇芳の回答に満足したのか、特に訂正することなく、電脳通信でいくつかの算出グラフを送信してくる。六枷は電脳を備えていないため、手元のデバイスと眼前に投影されたARコンタクトレンズの資料を代わる代わるに見つめている。話が続く。

「ピカレスクの弾き出した環境変動値は0.025°。算出された公共料金系・量子ベクトル・監視映像サンプルの特徴量を重ね合わせた結果、変動遠因は比良坂リサーチセンターの執行部、比良坂一切であることがわかっていル」先程の写真のネ。ローレルが付け加える。

ピカレスクの計算はひどく迂遠・・で、一見何も関係の無いような大量のデータ群から粒子運動の予測を行い災害を検知する。六枷は視線スワイプで目の前のデータをすいと視界の外へ追い出した。ブラックボックスの中身をいくら覗いても結果は同じはずだから。だが視界にはまた別のデータが投影され、比良坂一切の粘着力のある笑顔と再び対面することになる。こんにちは。

『比良坂一切はここ4ヶ月表に姿を見せていません』
隠岐衿奈の割り込み。

「ピカレスクは予測の実現のため機能を絞ったAI。処理する対象を直接明示する具体的なデータが得られないことも多いのサ。住民IDや所在地が算出できなかった場合は、このように居場所がつかめなくなってしまうこともありえるヨ。
……フム、彼は何を思ったか住居もとっくに引き払イ、会社へはほとんど引越し先からのリモートで出社しているようダ」ローレルが引き継ぐ。

そもそも、比良坂一切は引っ越した事実すら極少数の部下にしか知らせていなかったらしい。受け持ったデータベース構築こそ相も変わらず堅実に進めているものの、彼自身の足跡を全く残さずに隠れてしまっている。見れば、提示されるデータもどんどん信憑性の薄いものへ移っていき、いつかのビジネスメールマガジンに掲載されたインタビューすらそこへスライドされる。「ギャンブルが好きでね」粘着力のある笑顔。

そういうわけで。「このファクター排除は膠着していル。検出から3週間が経過し、環境変動値には+0.001°の変化が起きていル。大変サ」ローレルは両手を大きく広げてみせた。
「+0.001°ですか?」
「十分な脅威だヨ」蘇芳の反応に対して、眉毛をくいと指で押さえながらローレルは応じる。認識に迷彩をかけた彼の顔面は、その位置が眉なのかどうか、はっきりとは分からない。

「さテ」ちょっとだけ話を変えるヨ。ローレルはくるりと指を動かし、今まで表示していた捜査資料を上へずらし、もっと具体的なデータを取り出した。
それらは一様にR-1N地区出身の除染業者に関する健康状態のデータで、いくつかの病院がハイライトされ、いくつかの病室がポップアップする。20人ほどの除染業者の頭部スキャンデータが横顔を向くように回転し、そこに収められた脳の輪郭が表示されると、どれもが額側、前頭葉より毟り取られるように削られ、電脳使用者は視界記憶を部分的に焼灼されているのが見えた。

蘇芳はああ、と唇に指を当てる。「カーボンコピーのまねっこコピーかな?って調査1で捜査中のやつですね」
「そウ。だがカーボンコピー事件とは無関係のものサ」
「差異は確かに多いですが……」六枷は先の大量殺傷事件、“カーボンコピー”と今出された前頭葉削りの資料を見比べ、破壊された脳の位置が異なることをみとめる。スワイプ。
こめかみの辺りを指でノックしながら、ローレルが口元を歪ませる。明確な証拠はないガ。と前置きして、
「実のところ……R-1Nでは脳を賭け金代わりにした賭博施設の噂が流れていル」
そう切り出す。
そこで脳を削られた参加者?」
「我々はそう見てイル」
脳カジノ。遊興にふける除染業者。

「ここで話を戻そウ」先に出されていた比良坂の資料がポップアップする。トラッキングできた比良坂公用車の動きを確認すると、ほとんど毎週末にR-1Nと内部都市の境を訪問する車が一台あり、近辺の建物を不規則に訪れていることが図示される。
『その建造物はいずれも内部都市にある除染請負業者2社の所有施設と隣接しているわ。そして前頭葉を切削された作業員達はその2社より発見されている』隠岐の声。

『比良坂一切は脳カジノとなんらか繋がりがある。ということが予測できますね』
同様に図示されるクレジットの利用履歴は近辺の店舗で高級煙草を仕入れており、名義はまさしく一切のもので間違いない。

なるほど!じゃあ盗聴なんて必要ないですよ。処理係の方にカチコミキメて頂いて、変わった趣味のおじさんをエイしちゃえばいいですね。お疲れ様でした
「ウン、そうは行かないんだネ」
「ええー」

祇園寺蘇芳は帰れない。ローレルが通路の後方へと回り込み、息を吐きながら人差し指を立てる。

「専門職系データベースの筆頭企業サ。厄介だヨ」比良坂リサーチセンターの幹部となれば、考えなしに捜索するだけでは企業連側からの圧力を使って巧妙に逃げられてしまう可能性もある。
環境課は環境変動値の扱いを他企業や軍警にも開示していない。要人暗殺の企てが露見すれば、ブロック内における環境課の立場には大きな悪影響が出るだろう。
明確な証拠をもってカジノを摘発し、結果として比良坂一切が責任を取って自殺した……と見せかける形での殺害が必要となる。

「そこで。キミの出番だヨ」ローレルが足を止める。
「ですって六枷さん」祇園寺蘇芳はそのまま直進し、隣の六枷へと微笑みかける。
「蘇芳クン、キミだヨ」ローレルが足を止める。

「盗聴器は電脳操作が必要でネ」ローレルが歩きながら手のひらを軽く振る。「まず蘇芳チャンが変装し、“アウトフィット・クラブ”と称される学閥系の食事会へ潜入する。キミはウェイトレス社員として給仕を行い、参加者に含まれる比良坂幹部社員、一切の片腕と目される角回朔太郎カクカイサクタロウという男へ盗聴プログラムを仕掛けル」

『首尾よく盗聴プログラムを仕掛けたら、盗聴器を利用して比良坂の内情を調査します。角回が脳カジノについて一切と詳細な会話をすれば捜索の許可は下りるでしょう』
隠岐が話し出す。
『願わくば。脳を賭けているカジノの実態をそのまま口に出してくれればいいのですが、そう事が進まないことも想定します。最低限、次の脳カジノがいつどこで行われるかの情報があれば、摘発の証拠確保の糸口にはなるでしょう。
また――あるいは比良坂一切の居場所がわかれば捜索の後で自殺偽造による殺害が可能となります。角回がどれほど一切に信頼されているかによりますが、この情報の有無で暗殺処理の難易度は大きく変わることになります』

確かに。ピカレスクについて知識があり、なおかつ電脳操作に優れた蘇芳であれば、変動値ファクターの排除をサポートするのにうってつけの人材だ。
隠密行動が常であり他の係の支援を受けることができない仕事。最悪、切り捨てるしかなくなったとて、生来の戸籍が死亡済みにされている自分であれば、ちょっと手を加えるだけで簡単にごまかすことが可能だろう。なるほど。そう考えて、蘇芳はとても楽しめそうな印象を抱いた。楽しいことは好ましい――

――がちゃり。『目的地に到着しました』這い上がるアナウンス。
蘇芳は現実へと引き戻されて、シートベルトの留具を片手でぱちんと外した。

「モノレール寄見前駅より徒歩3分、電脳ソフトウェアやデータシンク・データベース管理系オフィスへのアクセスも優れた吾妻東の街並みは静かに、しかし圧倒的な精彩を放っています……」

突如マンションから空を貫く黄金の光。広告のイメージ映像が佳境を迎えたところで車が扉を開く。スキップ。

宮殿めいて広いエントランスを抜け、小さな応接間ほどもある高速エレベータで気圧が変わるほど上階へ移動し、めまいのするほどきっちりと整頓されたバックヤードの一角へと足を踏み入れる。蘇芳は制服である華やかなドレスに袖を通しながら、ローレルから送られてくるメッセージに気付いた。
アウトフィット・クラブの給仕スタッフである20代半ばの女性は隣接ブロックへ両親を見舞いに行ったきり、交通許可の差し止めを受けて戻ってこれなくなっていた。もちろんこれは隠岐とローレルの情報操作によるもので、こうしてできた空席に関連会社のスタッフという体の蘇芳が滑り込む手筈なのだ。――メッセージはその給仕スタッフが何かの圧力に負けたのか、交通差し止めの異議申し立てを取り下げた。というものだった。『いい親孝行になったはずサ』とは、ローレルからの追記である。

重電波法違反。情報詐称。これから殺人幇助も行う。もし環境課の尻尾切りにあった場合、どれくらいの罪にされるかを考えて、蘇芳は試算したテキストファイルを“本当にいらないものリスト”へと送る。ドレスは程よくぴったりと体型にフィットしており、概ね問題なさそうに見える。

ホールに出てみると、いやらしく並べられた大口の水平連続窓から、吾妻の美しい夜景が一望できた。

――眼下に広がる街並みは、電脳とともに発展した。それを利用する巧妙な犯罪もまた、市民の生活へと広がっていったはずだ。
重みを増した脳という臓器。これをチップ代わりにするカジノはある意味で電脳文化の発展による副産物かもしれない。

蘇芳が運ぶワゴンからテーブルへと大皿が移されクロッシュが持ち上がると、そこには湯気をくゆらす揚げ湯葉の北京ダック仕立てが横たわっている。アイスのジャスミンティーに浮かぶ淡い色の花が天然のものであることは、キッチンを手伝った時に確認した。添えられた干し椎茸とナツメのスープもふんわりと食欲のそそる香りを振りまく。

お嬢ちゃん、自分で持ってきた料理をそんなに見ることないんじゃない」

席に深く腰掛けた肩幅の広い男性は、角回朔太郎で間違いない。――蘇芳は柔和に微笑んで少しだけ会釈をし、他の席へ向かいながらも角回の佇まいを注視する。
背は高いほうだが、彼はやや上目遣い気味に威圧的な角度で人の顔を確認する癖があり、ゆったりとした身のこなしで野菜料理を口に運ぶ。何かを説明する時両手を開いて相手のARモニタに図示する癖は、電脳施術に慣れていない老年の経営者と繰り返し会談を行って来たであろう経験を想像させた。褐色の肌は潮の香りがする。
あのペースでアルコールを入れているならば、タイミングを測ってホールに出ることで会話のチャンスを作れるだろう。

「鈴谷さん、いい感じですね。ヘルプありがとうございます」
鈴谷とは蘇芳が使った偽名のことだ。厨房スタッフは揚げすぎた麻花ドーナツをつまむと、それを蘇芳に齧らせて、紙ナフキンで口元を拭った。
例によって。いくらか基幹部門の情報工作もあっただろうが、蘇芳はアウトフィット・クラブのスタッフとすぐに打ち解けた。会食前の調理工程とメニュー管理のプログラム処理も少し手伝い、目立たない程度に軽く話し、適度なリアクションを返す。
蘇芳は時折子供っぽく振る舞ったが、基本的にはきびきびと仕事をこなした。ある程度気を利かせ、スタッフの仕事が減るように先回りをする。
こうしておくことで、少しだけ融通が効く。鈴谷さんに任せてしまって大丈夫そうだ。と思わせておく――「あっ……と、ワタシ出ます。7番さんそろそろ追加が入ると思います」「ええ、お願いします」

「おお、いいかね?」角回は片方の眉を跳ね上げ、白い歯を見せながら笑う。「酒を……もうこれはボトルのほうがいいかねえ。財堂さん、いいかい?それと――甘いものがほしいなあ。お嬢ちゃん、メニューをくれるか」
はい。と返事をし、蘇芳はタブレットと電脳の公開通信枠へメニューリストを送信した。

繁体字。角回と同席者が予約時に選択した言語ではない。ミスだ。

角回はすぐに首を傾け、口元には笑みをたたえたまま、暗い灰色の瞳を蘇芳へ縫い止める。
人の話し声が遠くなり、空気が張り詰めた。
沈黙が長い。蘇芳ははっとしたように角回へと視線を合わせ、一筋の汗を首に這わせる。

「お嬢ちゃん」
角回が口を開き、にっこりと口角を引き上げる。
すみません。すぐにメニューをお取替えいたします」

……視線が外される。「落ち着いたフリが上手だねえ」と声をかけられる。

ミスだ。しかし、故意の。
蘇芳の体はほとんど全てが機械部品だ。唾液を嚥下する機能は食事のタイミング以外で有効にならない。だが、蘇芳は咽頭を少しだけ動かして何かを飲み込んだような素振りを作った。眼球運動を確認されている可能性も考慮し、再現機能がオンになっていることを確認していた。

蘇芳は角回との接触を持つため、全ての業務をスムーズにこなすのではなくわざとミスを用意した。立ち振舞いが完璧になりすぎないよう気を配って。
そしてもう一息。ここで動揺した体で彼の肩に手を置くことができれば、首筋にあるであろう電脳端子へとプログラム盗聴器をセンドできる。今まさに席を立とうとしている後ろの客の動きを利用すれば――

ああそうそう、お嬢ちゃん、名前は?」
肩に手を置かれているのは蘇芳の方だった。
広く大きな手が鎖骨に添えられ、尻臀しりたぶに当たった骨ばった手の甲はするりと手のひらを向け、指先が撫でるように動いた。
角回が好色だという情報は聞いていた。予定と異なるが好都合だ。蘇芳は電脳のフォルダを確認し、二度目の説明で渡された隠岐のプログラム盗聴器を開く。

――
「――これじゃダメなんですね」
「物理盗聴器ネ、まず気づかれるだろウ。電脳コネクタへ電気的に接触しバックドアを取り付けヨウ」
「感覚器の情報をそのままパスするだけであれば、まあ、中々センサーに引っかかりづらいですからね」
「ハハハ!まあそれでもバレるのは時間の問題サ」
プログラムについて思い出せば、ローレルの快活な笑いが想起される――。

「――鈴谷です」

角回の首元へと細い指を回し、皮膚へ軽く電気ショックを流しつつ、盗聴器をセンドする。目を少し伏せ震わせて、申し訳無さそうに、けれど戸惑った様子。少し額を汗ばませる。蘇芳が普段絶対にしないような仕草だったので、わざとらしくなっていないか、監視カメラの映像を間借りして確認する。問題なし。

角回の方はといえば、すっと身を引いてくぐもった笑い声を上げ、目を閉じ手を顔の横で広げてみせる。相席している老人が、人が悪いね角回くんは。とこぼす。
「いたずらが過ぎたよ。悪いねえ、チップだ」

そう言って。角回は蘇芳のイブニンググローブへと一本の高級煙草を挟む。

蘇芳は一歩下がり、丁寧に頭を下げ、受け取った煙草を手に取ると、鼻に近づけ礼を返す。
そして踵を返し、少し汗を拭いながらバックヤードへと戻る。

扉を抜け、歩き――その歩幅が大きくなり、ぐんぐんと加速していく。
『――蘇芳さん』角回のすぐ近くの座席、蘇芳が立ち上がる動きを利用しようとした客は、吊りショートパンツとかっちりしたドレスシャツを身にまとった六枷だ。彼女からの通信。「そうです。窓から離れて下さい」
バックヤードも抜け、非常階段から外へと飛び出し、受け取った高級煙草を空中へと放り投げると、蘇芳はコンクリートの壁に身を隠して体を丸めた。

閃光と熱風。
破片はそれほど散らなかったが、建物のガラスが音を立てて内側へはね飛ぶ。サイズの割に熱量が大きすぎる。四物爆弾だったのかもしれない。
すぐにアウトフィット・クラブから悲鳴が上がり、抗議する客と顔を青ざめさせたスタッフが走り回っている。蘇芳もその群れに混ざり、慌てながらも客を避難させていく。

人混みの中を探す――が、角回の姿は見つからない。『こちらも見失いました』六枷が倒れたテーブルの影から顔をのぞかせ、ホールに戻っていた蘇芳へと歩み寄っていく。
その中ほど、不自然な位置に丁寧に置かれ炎上する料理皿。
六枷が端末で確認すると、その炎の中から発信機の反応がある……が、ばちり。と小さな爆発が起きたあとでその反応は途絶えてしまう。

「作戦の練り直しですね……」六枷がつぶやくが、蘇芳は黒猫の少女が握りしめた携帯端末を手に取ると、いくつか操作をして彼女へ返す。発信機の反応はこのビルを今まさに離れ、徐々に加速しながらで由防高仁へと向かっていく。

六枷が顔を上げる。蘇芳はドレスの足元をまさぐると、ボタン大の物理盗聴器を取り出した。
「物理盗聴器もプログラム盗聴器も、両方仕掛けていたんですか?」
「相当怪しまれたように思いましたので。わかりやすい囮を付けたつもりだったのですが」

六枷は感心したように口元に手を当てるが、急に顔を跳ね上げ、声を荒げずに、けれども早口で「電脳のオンライン状態をすぐに切って下さい」と言って、首元を指差す。
「え?」と返事をしつつも蘇芳は従い、招かれる手に合わせて膝立ちになる。六枷は携帯端末で基幹部門へ通話をしながら、その通信部を突然蘇芳の首元へ押し当てた。
わずかな情報交換。ごく表層の電脳侵襲。

「どうしました?」
『あなたの感覚器に角回朔太郎から盗聴プログラムが仕掛けられていました。幸い情報をある程度プールする類のものでしたけれど』
『いやいや、その上物理盗聴器に即座に気付キ、あまつさえこんなに激しい手段でワヤにするとはネ……』

蘇芳は立ち上がり、今はかいてもいない汗を拭う仕草をして、必要のない息を吐いた。
「ああ、危ないなあ……お手数おかけいたしました」
「いえ」
六枷が首を振り、物音に耳をくるりと傾ける。人が戻ってきますね。と、アウトフィット・クラブの社員から隠れるように窓際の方へと走り出す。
それを横目に、蘇芳は転がっていたガラス片で少し肌をひっかき、煤を首元へと塗りつけた。

「す――鈴谷さん、大丈夫ですか?!あ、お怪我が……」
「いえ、大丈夫、大丈夫ですよ……えへへ、ちょっと切ってしまいました。皆さんお怪我はありませんか?」

肩を支えてもらい立ち上がる。足を伸ばし、燃えさしから盗聴器を蹴り転がして、テーブルクロスの端へと隠した。