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賭けよう、発狂するほどの喜びを 下

『楽しみといえば、ちょっとした賭け事くらいのものでした』

視界記録が再生される。
虚ろな目つきの男、眠たげに手足を放り出したサイボーグ、鼻歌交じりで応対を行う中年の女性。
『いつまでたってもろくに稼げない仕事だったよ』
『そのうち金も無くなってしまいましたね。体を切り売りするのにも限界がありました』
腹部の切開痕を見せる男性。曖昧に返事をする調査1係の環境課員。

人物が切り替わり、注がれた水道水を震える指で口元へ運ぶ女性。『何もかも嫌になったのですが、それで、もう身を投げてしまおうかなと考えたこともあったのですが』女性は底抜けに明るい声色で話し、『そんな時、ウチの親企業のですね。比良坂さんからお話がありまして』と、壁にかかった除染会社の制服を指差す。

『元の母さんを返してほしいです』
別の映像。膝の上で手を握りしめた青年が、厳しい眼差しを地面へと落としている。先程の女性の家族だろうか。一様に幸福に見えたカジノ参加者と比較して、残された家族の反応は悲痛だった。

暗い天井裏、身を丸めた状態で調査記録のAR再生を止め、蘇芳は頬に手を当てた。隣に座った六枷が落ち着いた様子で携行品を確認し、ベルトへと戻す

「これだけサイボーグが一般化すると」蘇芳はグルコースのパックを咥えながら口を開く。「顔も真似られる、体だって好きにできる。そんな中で自分を示すものがもうしか残っていない」

パックをくしゃりと握りしめ、「いやー、それが削られちゃうんだから大変ですね―。あー怖い怖い」眉を顰めて見せる。
「……そうですね」鈴のような声。六枷は視線を合わせてそう答えた。

祇園寺蘇芳と六枷霧黒は今、脳カジノの会場へと張り込んでいる。

基幹部門がカジノの開催位置を確定したのは、盗聴開始から一週間とわずかほど経った後だった。
物理盗聴器に気付き爆弾で報復までしてきた切れ者の角回朔太郎だったが、プライベートの彼はあれこれと饒舌で、比良坂一切の住居もカジノの実態も、大まかに掴めてしまった。
『角回には8人の……心を寄せる女性がいるようでネ。彼はすごいヨ。代わる代わる毎日違う女の相手をしていル。ウン……そう、8人といったけレド、火曜日だけは隔週で2人の女がいるんダ』
ローレルが困惑したようにそう語っていたのも記憶に新しい。

だが、決定的な証拠は盗聴の割り出しからは掴めない。
『営業許可の出ていない賭博行為は有罪だケド、臓器……つまり脳だネ。これを財物としてやり取りしている証拠がなければ捜索はできなイ』

「視界情報やカジノ天井カメラアイインザスカイの映像からは、いずれも比良坂一切が確認できていませんね」六枷が周辺の地図を開く。「隣接する建物か、あるいは別の階層から賭博の様子を楽しんでいるということでしょうか」
『そうよ』一瞬間を置いて、『そして、張り込みによるドローン捜査は失敗に終わっています。カジノが開催される場所を事前に認識し、直前に侵入しなければ捜査は振り出しに戻るでしょう』隠岐が倒壊したビルの写真を提示する。
『気付かれればカジノは開かれない。予定地ごと取り潰されるのサ』

結局の所、物理証拠の確保そのものは必要だった。
カジノの情報そのものが囮という可能性がある。と隠岐は潜入の算段を見直していたが、変動値の動きは無視できない。向こうが仕掛けているのか、こちらが仕掛けているのかの違いはあれど、どこかで折を見て身動きをする必要があった。

「……そろそろ開始の時間ですね」「前進しましょうかー」

システム天井の上部は全身サイボーグの重さに耐えられる構造ではない。六枷はその身軽さゆえに適当な部分を歩いてもさほど問題にならなかったが、蘇芳はそうではない。
仕方なく、ローレルはオッペンマフテフの軽量試作機体を用意し、いくらかの動作確認を行ってから天井裏への潜入を試みることとなった。機体に差があれど、身体操作自体は得意である。蘇芳はすぐに乗りこなしたが、スタンロッドを手渡す時、ローレルは注意の確認も行った。
「――いいかイ蘇芳チャン、このボディはとんでもなく・・・・・・身軽ダ……本来このフレームに積むべき端部CNTと腰部のエンジン、背面ウィンチは用意できていナイ……つまりだネ、今キミは物理格闘にほとんど全然適性がなイ。言っている意味が分かるカネ?」

その言葉を思い起こしながら、じわりと脚を動かす。確かに体は軽く、その分調整できない頭部の重さが厄介でもあった。蘇芳はボルトより直接吊られている軽量鉄骨Cチャンネルにプラスチックの折りたたみボードを展開し、それを這うように移動したが、ナメクジのような身のこなしに、六枷は振り返り振り返り、ゆっくりとした侵入をするはめになった。

「っく……ちょっと……待ってくださいね……」「……大丈夫です。身長が違いますから、仕方ありませんよ」

本当は。と前置きしてから蘇芳は自分の頭を指差す。「電脳とアンテナさえあれば情報処理の手伝いはできますからね、機体をまるきりドローンにすげ替えてしまうという案もあったのですが、ちょっと時間が足らなかったようです」
もしくは、「ワタシの頭をタコみたいに単体で動かす案もありましたが、人事のふたりに止められてしまいました」「ふふ」

今笑いました?と聞こうとして、蘇芳は口をつぐんだ。物音が聞こえる。管制室の隠岐は押し黙っている。六枷も気付いたようで、左右の耳をゆっくりと外へ向け、少し顔の向きを下げた姿勢を取っている。

カジノ開催現場は旧防壁と内部都市の汽水域よりさらに奥にある。人の行き来はまばらだ。そう考えると今までがおかしい。物音が少なすぎたのだ。もうしばらくで盛況であるはずの脳カジノが開かれるというのに。

蘇芳はアンテナにスパークを走らせ、上層階のサーベイランス管理へとアクセスを試みる。距離的にはギリギリだったが、情報の横流しくらいはできるレベルだ。

「おや」おもむろに天井板を外し、蘇芳は下へと着地する。六枷はまつげを張り詰めさせるが、覗き込む限り、監視ルームには誰の影もなかった。
設備は生きている。けれど無人で運用されている。下階のカジノ会場も同様で、煌々と照らされた即製のゲーム台にはAIのディーラーを残して、スタッフの姿が見えない。

その入り口、金属で囲われた大きなガラスの扉が、何の前触れもなく内側へと開く。

角回朔太郎の姿。
そして――粘着質な笑顔。体は細く身長も高くないが、背筋を伸ばして口元に指を置いた特徴的なポーズ。比良坂一切の姿。

角回は片手に持ったカップでアルコールをくいと傾ける。一切の方はと言えば、何度か周囲を見回した後、上を、つまりカメラの方向をまっすぐに見上げ、地面を指さしながら口を開いた。

『降りてきなさいよ。話をしましょう』

割り込み通信。『六枷霧黒、祇園寺蘇芳、一度退きなさい』隠岐衿奈の平坦で悍ましい声が届く。聞くなりふたりは駆け出していたが、上層階から外部へと繋がっている通路、下階のカジノ会場から見れば張り出した角状の観覧席を抜けるタイミングで、轟音が響き、あらゆるなんかのかけらが舞い飛んだ。

ルーレットの机。
それが飛び込んで来たのだ。下階から。

崩壊する床材とともに六枷は落下し、蘇芳は電飾に正面衝突するように投げ出された。角回朔太郎は大柄ではあるが、手足は締まっている方だ。全身サイボーグだとしてもこの膂力はおかしい。CNT筋繊維が見かけの倍は詰まっていなければ、辻褄が合わない……蘇芳はケーブルを伝って着地すると、瓦礫の隙間から六枷を引っ張り出す。点々と血痕が広がる。

「さて、朔太郎、閉めちゃってよ」「もう閉めたんだよなあ。これが……」
隔壁の閉じる音。
ローレルが最後に何かを言っているのが聞こえたが、隠岐の声も、ローレルの声も、ブツリと途切れて聞こえなくなる。アンテナでのアクセス……は、できない。隔壁は半分までしか電子制御されていない。

六枷が飛び上がって爪を剥き、比良坂一切へと斬りかかる。しかしそれは駆け寄った角回の逞しい肩口に突き刺さって止まり、爪を伸ばした手のひらは男の手につまむように握られる。そのまま――振り回して放り投げられる。角回の手指にもざくりと鋭い爪が突き刺さる感覚はあったが、彼の肩からも、片手からも、血液は一滴も流れなかった。
蘇芳が走る。投げられた小さな体を抱きとめるが、機体が軽すぎる。そのままふたりとも壁へと叩きつけられ、蘇芳の着ているレインコートにはべったりと血のりが伸びる。

「気が早いよね。君たちはー……あー……見たことないな。誰?何の目的なのかな」
「食事会にいたよなあ?鈴谷、子猫ちゃんは分からんが。何だ?比良坂のデータベースをどうしたいんだい」

蘇芳も六枷も応答はしない。何を言うことも事態の好転には繋がらない。比良坂一切は隙だらけだが、角回の油断ない足運びは一歩を踏み出すことを戸惑わせる。蘇芳は――ボディバッグを腰部へ回し、指に引っ掛けるようにスタンロッドを抜いて、地面と水平に構えた。

そして走り出す。普段と……重心が違う、出力が違う。ある程度の速度は出るが、つま先は弾丸初速へわずかに及ばない。それでも充分に速いはずだ。体の軽さを活かし、壁面と垂れ下がった電飾を掴み、蹴り込み、人間の挙動を逸脱した動きで撹乱する。アンテナがスパークする。

閃光。甲高い金属音。平衡感覚が狂い、口に強烈な苦味が広がる。
それは可視光線がアイカメラに飛び込んだ反応ではない。もちろん何も音など鳴っていない。祇園寺蘇芳の発したパルスが、角回の電脳の感覚器をかき乱したのだ。アンテナの放熱が始まる。

褐色の肌の男は唸りながら掴んだカジノテーブルを振り回すが、それはただカーペットを削るだけで、蘇芳の足には届かない。六枷はこの隙を見逃さず、音もなく比良坂一切の背後へと回る……しかし。突然、目線も覚束ない角回がぴったりと六枷の方向を向き、テーブルを捨て置いて渾身の踵落としを振り放つ。

「あのねえ。僕も居るんだから。無視しないでよ」
比良坂一切がまぶたを押さえる。コンタクトレンズだろうか――視界映像を角回の電脳へ送ったらしい。

六枷は転がるようにして離れ、テーブルの上のトランプを宙へと振りまいた。一瞬でも目隠しになれば、蘇芳のスタンロッドを補助できる。音のない衝撃が上から降り注ぎ、一切の片手がだらりと下がった。
「あら?」浅い。スタンロッドで意識阻害が完全になされるのは、中枢神経へ重力子を衝突させたときだけだ。そもそも今狙ったのは角回である。距離が離れすぎている。
もう1射をと蘇芳が駆けるが、感覚器のコントロールを回復させた角回は、大柄な体躯をひねりカーペットを千切るように引き剥がし、足場を滑らせる。

「……ッ!」そして、蘇芳の手首を握り、鈍い音をたててそれをもぎ取った。スタンロッドを指先で回し、比良坂一切へと投げ渡す……受け取った一切は躊躇なく蘇芳へ引き金を引くが、膝の力が抜けて転がるだけで、それほど大きな効果はない。
「じゃあこっちは?」六枷へ引かれる引き金。これも意味をなさない。蘇芳は驚いた。情報人格ネットレースである自分はともかく、生身・・の六枷がスタンロッドを受けて無反応でいられるはずがない――……しかし、今は疑問を抱えている時間でもない。動く方の足に力を込め、バッグから取り出したワイヤ付きスタンガンの弾頭を指の間へと挟むと、角回の首筋へ――

発砲音が響く。
「ダメだよねえ。こんなおもちゃじゃさ、引き金は重くなきゃ」
比良坂一切はスタンロッドを捨て、長めの銃身を持った大ぶりの拳銃を構えていた。六枷のつま先を牽制するように穿たれた銃痕。
蘇芳は動きを止める。六枷も。普段の彼女ならばすぐに身を返し、一切の銃撃など意に介さなかっただろうが、詮方無く、出血量が多すぎた。痛覚が運動能力を阻害しなくても、動かない筋肉では足を捌くことが敵わない。

「終わりだよ。武器を捨てな、お嬢ちゃん」
比良坂一切の銃口は六枷の額に押し当てられている。

六枷は開いた爪を収めなかった。自分に気を取られている間に蘇芳が動けば、もしかすれば角回の動きを止めることができるかもしれない。そう考えたのだ。一切の銃弾も……この距離で完全に躱すことは難しいだろうが、少なくとも即死を避けるように動くことは可能なように思われた。だから、

「も~~~~~~!!!やだ~~~~~!!」
蘇芳が地面に仰向けに倒れて、スタンガンの弾頭も投げ出し、恥じらいもなく足をばたつかせた時、両目の瞳孔を縦線のように収縮させた。

「ハハハ!……何だお前は。上手だねえ。慌てたマネをするのが……」
「済んだ?僕、話してもいいかな」
「ああ、どうぞ、どうぞ……」

一切が前へと出る。銃口を逸らさせることには成功したが、角回が拳を固めて六枷の方へ動いたので、あまり状況は変わらなかった。蘇芳は内心毒づきつつ体を起こし、正座するように向き直る……手のひらの内に隠した弾頭を突き立てられるチャンスが回ってくるだろうか?

「君たちお話ししてくれそうにないからさ、代わりにお願いを聞いてよ」
一切はそう言い、煙草に火を付けながら木くずの乗ったバカラのテーブルへと歩いて、「お友達を呼んであるんだろう?時間つぶしにこれをしよう」と言い出した。
「誰かにずっと嗅ぎ回られていることは分かっていた。疲れたよ。もうやめだ」

「だが最後に道連れが欲しい。負けた方が脳を削る」

――脳カジノだ。

お願いだって。そんなものではない。断ることのできないお願いは、お願いなんて呼ばれない。蘇芳は薄い笑顔のままで残った方の指をぴくりと動かす。

脚は回復した。断って角回の猛攻をかわし続ける事はできるだろうか?ノーだ。ちらりと向こう側を見る……六枷の出血は軽くない。彼女の動きが鈍っていることは確認しているし、撹乱しかできない蘇芳の動きは角回に対応されつつある。
現場に到着した軍警に環境課の動きを悟られるのは、ブロック内政から見て良くない。隠岐は事態の拡大と天秤にかけて自分たちを切り捨てている可能性がある。物理戦闘を長引かせることはデメリットでしか無い――これは打って出るべきではない勝負。敗色色濃い今は一旦話を飲んで……違う。

蘇芳は気づいた。
何より、この勝負を“面白そう”だと自分自身が思ってしまっていることに。

「……………………分かりました。脳を賭けましょう」

蘇芳は真っ二つになったテーブルに掴まりながら立ち上がる。時間の上では、比良坂一切の問いかけに蘇芳が応答するまで、3秒もかからなかった。角回が鼻を一度鳴らし、大きな手のひらを紳士的に揺らして六枷をエスコートした。

いいかな?と指を立て、比良坂一切はテーブルへとつく。
「前頭葉240グラムをこの、10グラムチップで換算するよ」
24枚のチップが蘇芳と一切の席へと積み上げられ、向かいディーラー側には角回が回り込んだ。

「バカラは一対一の勝負に向かないゲームだが、最低1枚ベットして勝ち分を相手から徴収、負け分を相手に支払うというルールで短くまとめよう」
しかも小バカラ。カードの絞りに時間も使わない、あっさりしたゲーム。バカラは駆け引きのないゲームだ。そういう意味ではブラックジャックに似ている。彼の言ったルールなら、勝負がつくのに10分もかからない。前頭葉240グラムを完全に削り取るのに、10分もかからない。

「こっちには俺がいるけどねえ、ディーラーはゲーム用のAIが受け持ってるから、不正はないんだぜ」
角回はそう言って、飲みかけのグラスを煽った。赤色プレイヤー黄色バンカーのベット先を両の手指で指さしている。

ベット。前頭葉チップを1枚置く。プレイヤー。
シューターからカードが配られる。角回はARエフェクトの動きに合わせて手を返し、カードを開く。
プレイヤー側のカードは10、そして7。10以上はゼロとしてカウントされる。7ポイント。
バンカーは……6ポイント。比良坂一切はバンカーにベットしている。

蘇芳の勝ち。次のゲーム。ベット。蘇芳は前頭葉チップを3枚置く。プレイヤー。

「……バーネット法ですね」「そです」
六枷はジャケットを割いて脚へ結び、盤上を見つめている。バーネット法はシンプルで有名な賭け方で、大きく勝ちたい時の手だ。勝ちと負けが拮抗していると赤字を吐くが、勝ち続ける限り利益を増すことができる。蘇芳の勝ち。次のゲーム。
「システムベットは禁止ですか?」「や、いいよ。何でもね」

ベット。前頭葉チップを2枚置く。
「脳っていうのは、不思議だよねえ」
比良坂一切が口を開いて、指で三角形を作るようにテーブルへ肘を突いた。
「僕はこうやって賭けをしていて楽しいんだけどね。そう感じない人も世の中には居るわけじゃない」角回の飲みさしのグラスを傾ける。「そういう人の脳と、僕のこの楽しいな。って感じている脳の部分だけを入れ替えたとしてさ、これは誰なんだろう。僕は誰になるんだろうね……」
「心臓を誰かからもらったとしても、レシピエントはレシピエントさ。臓器移植の記憶転移をどれだけ信じても、価値観がそっくり変わるわけじゃない……あれは、妊婦さんのメシの好みが変わるようなもんだろう?」
カードを開く。一切の勝ち。
「脳はそうじゃないんだもの。これは価値観でできているんだ。面白いよねえ」
「……そんなに面白いのに、削っちゃうんですか」
「そうなんだよ!!楽しいでしょう?!」

比良坂一切はこちらを向く。蘇芳は眉をハの字にして笑って見せる。「全然楽しくないですよ」そうは……見えない。ベット。チップを置く。カードを開く。ベット。ベット。……
勝負は淡々と続けられた。六枷と蘇芳はぽつぽつと言葉をかわし、比良坂一切はたまに個性的な持論を広げてみせた。ひどく奇妙な時間が流れていく。チップは増えたり減ったりして、次第にそれは偏っていった。蘇芳の勝ち。

テーブルの上、比良坂一切の側に、前頭葉のチップはもうない。

一切は少し息を吐き、「賭けは好きだが弱くてね」と零した。
そして「どうする 何か僕から聞きたかったのかな?何が欲しかった?」と問いかける。彼の顔はいくらか興奮に震え、粘着質が鳴りを潜めた爽やかな笑顔だ。その満足げな顔を見て、蘇芳はにっこりと笑い、
「特に聞くことはないので前頭葉を全て削ってください」と、そう返した。

「ああ」
直後、角回は腰を入れた渾身のストレートパンチを比良坂一切の頭部前面へと放ち、その頭蓋骨と脳細胞を辺りに撒き散らした。眼球に脳漿が飛び込み、思わずまぶたを閉じる。人間の拳が人間の頭を叩いた時に、スイカを割ったような音が鳴っていいはずがない。ほとんど同時に地響きのような衝撃とガラスを砕く音がして、土埃の煙たい香りが周囲を包んだ。

「大丈夫ですか」視界は赤い。煙の奥から全身真っ赤な細身の男と、重装備に身を固めた白髪のサイボーグが現れる。ふたりとも環境課員だ。六枷と蘇芳は切り捨てられてなどいなかった。

蘇芳がテーブルを見ると、だくだくと体液をこぼす比良坂の体があって、人工の心臓が虚しく脈動を続け、バカラの盤面を塗りつぶすのに執心していた。生命反応は消えかかっている。電脳のアクセスを試みるが、そこには暗澹が横たわり、何かを探す暇もなく活動の電位が掻き消える。

六枷は携帯端末を見て瞬きをした。角回に仕掛けたと思っていたプログラム盗聴器は、いつの間にか一切へと移動させられていたようで、彼の生命反応が止まるとともに盗聴システムが沈黙したのだ。あの食事会のように、あたりを見回しても角回は見当たらない。

「全部めちゃくちゃにしてきていいと伺ってきたんですが、とっくにめちゃくちゃになっちゃってますね」赤肌の男が蘇芳と六枷を抱える。遠くでサイレンの音が聞こえた。様子に気づいた市民の声がする。顔に張り付く脂ぎった血液を拭って、蘇芳はゆっくり瞳を閉じた。

「いやア!お疲れ様だったネ」
ローレルの快活な一声。彼は手を広げ、六枷と蘇芳に握手をしてみせた。
環境課庁舎の地下にある人事執務室は、やや明るい照明とガラスタイルの壁面を持った広い部屋だ。人事の課員は漏れなく電脳所有者であるため、各人のデスクは小さく、書類や荷物もそれほど多くはない。
その柔らかい革張りのソファに、六枷はちょこんと、蘇芳はだらりと腰掛けていた。温かいコーヒーがローテーブルに置かれ、蘇芳は持ち込んだ揚げ菓子を蝋引きの紙袋から取り出して齧っている。

「不手際があって迷惑をかけました」
なみなみとした淡色の髪がなびく。隠岐は通信ではなく機体の姿を見せ、事務的に経過の説明を続けた。
「予定とは違う運びになりましたが、環境変動値の変動ファクターは処理できました。変動値の内容に関して外部に一切漏れていませんし、脳カジノは比良坂一切の死により閉ざされ、最後のバカラについても内々で処理できています

写真ではなくイメージモデルの画像データが共有される。
「一切の飛び散った頭蓋は一応全部回収したんだけレド」どうやって?
モデルにはいくつかの欠けがあり、ブランク・スペースが着色される「どういうワケかネ、角回朔太郎に吹き飛ばされる前から、スプーンで、前頭葉の一部が既に削り取られて・・・・・・・・いたようなんダ」
興味もなさげに隠岐が目を閉じる。「安全圏から高みの見物を決め込んでいた……というわけではなかったようです」

そして今度はアクセスログが共有される。
「あなた達の記録データにある……これね。『誰かにずっと嗅ぎ回られていることは分かっていた。疲れたよ』」隠岐は急に声色を比良坂一切のものと全く同じにする。「どうも、環境課わたし達のことではないみたい。見て下さい」
それは……比良坂社内のアクセスログだ。網目状に広がる太いマーカーがデータベースの各所を錯綜していて、何かを探っているように見える。

角回朔太郎の想定ログです。最後は比良坂一切のデータを全部洗っているけれど、これじゃないかしら。『嗅ぎ回られている』って」

「……角回はなにか見つけたんでしょうか?」
「どうカナ!比良坂の末端AIがいくつかトレースされているのが見えるけレド、彼は一切を殺害してから先、どこにも姿を見せていないヨ」
六枷の前で腕組みするローレル。
「まあ……そうだネ。このAIカ……。情報収集に関係するプログラムを……探していたんじゃないカナ。ハハハ!カーボンコピー事件を引き起こしたやつみたいナ、ネ」首をすくめる。

仕事は済ませたが、蘇芳にとってはいくつか疑問も残っていた。角回の妙な機体も、彼の目的も。あるいは、六枷の重力子耐性も。
だが、蘇芳はこれといって何も尋ねなかった。必要ならローレルが共有してくれるだろう。今はお腹が空いているので、大人しく愛想よく生返事だけをしていたい。そういう怠惰さを見抜いたのか、人事からの説明は主に六枷が相づちを打っていた。いくつか注意が伝えられ、それなりのサイズの調査報告が電脳へと共有され、「じゃア、これで解散!ハハ、蘇芳チャンはまたの機会があれば、よろしくネ」ローレルの手拍子で締めくくられる。

環境課庁舎の裏手から車通りの少ない幅広の道に向かう。薄明の空はまだるっこいパステルの色合いに溶け出し、ビルのシルエットを縁取っていた。

「六枷さん、いりますか?麻花ドーナツ
振り返る。蘇芳は香ばしい揚げ菓子を揺らし、そのまま歩み寄って、六枷の小さく閉じたかわいらしい唇の前に差し出した。かり。と音がして、ひとくち含んだ六枷が半歩下がる。当たり障りのない笑顔。

道路に出ると、風がゆるりと吹いた。吾妻の街並みは今日も電脳の灯りで輝いている。
蘇芳は大きく手を降って六枷へ挨拶をすると、使い慣れた方の機体に熱を入れ、ギアを変えてから走り出す。
「共に良い環境を作りましょう」電脳ニュースに割り込みんだ広告がポップする。揚げ菓子を頬張り、蘇芳は軽やかな音と共に走り去った。