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笑うために笑う

こんばんわ。糸工ちや(べにわかれちや)といいます。

※この話は2011年に起こった東日本大震災の被災地の話を含みます。

 2011年、私にとってたくさんの事が起こった年でした。
 内定通知、東北地方太平洋沖地震(3.11)、内定取り消し、嘘、裏切り、そして旅。これらの全てが今の私を形成し、私である証明でもあります。
 今思うと、本当に無謀で、馬鹿で、でもよくやったと褒めたくなる、そんな10日間の旅の話をしたいと思います。

『生きたくないな』

 2011年の12月中頃。私は神奈川に住み、短期のバイトで生計を立てるフリーターをしていた。311の影響を受け、内定通知を貰っていた大手からは『お祈り』を頂戴し、就職活動をしながらその日暮らしをしていた。
 いつもと同じ東京メトロに揺られ、自宅へと向かっている時メールが来た。差出人は私が辛い時、苦しい時、駄目になってしまいそうな時助けてくれた女性だった。後になって思い返すと、私はあの女性の事を本当に信頼していたし、大切に思っていたのだと思う。
 そしてそのメールは、私から生きる気力を奪うには十分すぎる内容のものだった。内容は割愛するが、内容を見て呼吸が出来なくなり、水天宮前駅で降りた事だけははっきり覚えている。

「死のう」とは思わなかった。でも、
「生きてたくない」とも思った。

 1時間半ほどホームで思考を停止し、ゆっくり家に帰った。
 そこから数日間、現実から逃れようとした。心理的には地獄。体調的にも地獄。バイトはフル無断欠勤。スマホの電源を切り、ただひたすら布団の中で天使版私と悪魔版私を戦わせて遊んでいた時、二人の意見が合致した。
「被災地に行ってボランティアをしてこい」
 かくして、現実逃避の旅は始まる。

「君どこから?」

 現実逃避の旅というと聞こえはいいが、要はただの傷心旅行である。
 ただ、絶対的と言っていい信頼をおいていた相手からの裏切りだったこともあり、私は私の中で負のエネルギーをコントロール出来なくなっていた。
 隣人の4歳のお子さんのぐずる声ですら逆鱗に触れてしまうほど、コンビニの店員が外国人で片言で喋ってることに吐き気がするほど、感情を自分のものにできていなかった。
 ただの傷心旅行ではなかった。あの時の私は間違いなく、この旅が終わったら生きることをやめようと思っていた。
 決めてからは早かった。被災地までの行き方を調べながら、東京駅へ向かった。
 しかしその日暮らしのフリーター。お金はなかった。4万円と少し。使えるお金はそれだけだった。そのお金を握りしめ仙台まで向かった。

 生まれてはじめて訪れる仙台駅を楽しむこともなく、そのまま北を目指した。この時「この旅行は間違いなく失敗に終わる」と感じた。
 明らかに無謀だったからだ。

 駅名をよく覚えてはいない。ただ「ここから先は線路がない」そう言われた事だけはっきり覚えている。
 「線路がない」
 正確には、「なくなった」のだ。津波によって流された線路は、9ヶ月経った後も復旧はされてなかった。
 「朝と夕方の5時に、1日二本だけ女川(おながわ)に向かうバスがでとる」と地元の人が教えてくれた。ただし、聞いたのは18時半だった。

 私は、人生初の野宿をすることとなった。
 幸い、駅なのか何なのかよく分からない、屋根のあるところのベンチで寝れたため、あまり辛かった記憶はない。そして何より、疲れていたのかすぐ寝れたのが良かった。その日の夢は覚えていないが、朝起きた時はベンチから落ちていた事は覚えている。
 明朝4時40分に、バスは来た。「女川行きですか?」「そうですそうです。線路なくて大変でしょう」運転手は笑っていた。
 もちろん5時前だ、他に乗客はいない。そう思ってバスの一番うしろの席を広く使い、寝ようとしていた時、運転席の方から声が聞こえた。
 「このバスは女川へ?」

 まさかの他の乗客だった。乗ってきたのは40代頃のスーツをきた人で、まるで新宿のオフィス街を歩いているかのようなファッションだった。少なくとも、浮いてはいたと思う。そして更にまさかの事態が起こる。私に気付いた彼は少し大きめの声で私に声をかけてきたのだ。
 「君、どこから?」

 バスに揺られながら様々な話をした。彼が書物を扱う事業をしていること、女川にある図書館が津波の被害をうけた事、それを復興しようと来たこと等を話してもらい、私は「ボランティアがしたいけど何をしたらいいのかもわからずとりあえず来た」というとても適当なことを言った。
 我ながらひどい。
 すると彼はこういった。「よかったら私のところで手伝ってくれないか。宿泊施設と食事は用意する」。願ってもなかった。帰りの交通費を考えると私に残されたお金は僅かだった。「手伝えることは何でも言ってください」。こうして、見ず知らずの人のところでボランティアをすることが決まった。

「流れたよ、んなもん」

 想像を遥かに、何十倍も超える景色だった。映像では見ていた。「これ現実?」という景色を、画面越しには見ていた。覚悟はしていた。
 していたが、こんな事が起こるのかと、絶句ってこういう事を言うんだと。
 何もなかった。何も、なかった。見渡す限り更地で、遠くに積み上げられた瓦礫がある。建物は基礎からひっくり返るようになくなっているものもあれば、「横薙ぎに斬られた」ようにえぐり取られた建物もあった。
 その日は、図書館の人たちにどういう事をするか聞いて、街の現状や津波のときの話を聞いて一日が終わった。

 私に指導をしてくれていた人は「まだ旦那が見つからなくてね」と笑った。

 夜、こんなところに泊まってもいいのかと引いてしまう様ないい部屋に泊めてもらい、食堂でとてもいい料理を出してもらい、食堂の夫婦にチキン南蛮のソースの作り方を伝授(私の地元がチキン南蛮の発祥の地)し、米軍が初めて来た時「水じゃなくて紙が欲しくてな」という興味深い話を聞かせてもらい、ベッドに入った。

 あまりにも静かだった。小高い丘の上にあったことで津波の被害を逃れたその宿泊施設は、静かすぎて耳鳴りがするほどだった。喫煙者である私は、寝付けずに煙草が吸いたくなった。昼に手持ちの煙草を切らした事を思い出し、スマホでコンビニを探すと200メートルほど歩いたところにコンビニがある。こうなったらどんなに眠かろうと寒かろうと買いに行くのが喫煙者である。

 暗かった。とてつもなく暗かった。地図が指し示すのは間違いなく私が立っているところだった。しかしそこには何もなく、いや、何かあるのかも知れないが何も見えなかった。「まあ流石にこんな状況じゃ営業も出来ないか…」そんな気持ちで来た道を戻った。
 宿泊施設の入り口に看守さんがいて、煙草を吸いながらテレビを見ていた。私はスマホで地図を見せながら「このコンビニしまってたんですけど、他にコンビニってありますか?」と声をかけた。看守のおじさんは「へ?」と面食らった後、あっはっはと笑った後、笑った顔のまま言った。
 「流されたよ、んなもん。昼間見てなかったんか?」

 今日一日感じていた違和感を、強烈に実感して鳥肌が立ったのを覚えている。
 この街に来て、心を痛めて、目を伏せたくなる様な現実。しかしそこで生きている彼ら彼女らは、よく笑っていた。
 私の中にある見たくない現実を、日常を、笑っていたのだ。

 その日は、よく眠れなかった。

 次の日から4日間、私は図書館の復旧を手伝った。
 近くに水族館?のような物があり、もちろん大破していた。ある日時間が空いたので散歩していて発見し、危ないと分かりながら入ってしまった。
 見なきゃよかったと、心から思った。
 反対側の出口を出るとき、「倒壊の恐れあり。立入禁止」と書かれ、しおしおになった張り紙を見つけた。見なかった事にした。

 私を5日間も手伝わせてくれた事業主、図書館の人たちに礼を言い、連絡先を交換して女川を離れた。あの時バスで声を掛けてくれた事が全てのきっかけだった。感謝してもしきれない。本当にありがとうございます。
 次に向かった先は気仙沼だった。

「持ち主を探しています」

 再びバスに乗り、気仙沼市に到着した。最初に目に入ったのは、気仙沼市役所の前にかかった「ようこそ気仙沼へ」という垂れ幕だった。
 バスが到着した場所のせいか、女川よりも津波被害がないように思えた。そして、それは間違いなくバスの到着した場所による錯覚だった。

 港町だった。何もなかった。覚えているのは、排水溝を海水が逆流したせいでそこで自生している人手、液状化して沈んだ港の駐車場、何故か客を待つタイヤの半分沈んだタクシー、瓦礫、瓦礫、瓦礫。
 私は女川町がそうであったように、高いところに行けばなにかあると思い立ち、高い所を目指して歩いた。
 何という施設だったんだろう。体育館だったように思う。高台にある市民体育館。中からシューズが床を蹴るキュッという甲高い音が聞こえていたので、誰かが使用していたのだろう。とても寒い日だった。丘の上は風が吹き抜け、歩いて登ってきた汗を冷やしていた。
 きっと一生忘れない物を見た。写真だった。

 そこには写真が並んでいた。とても大きなコルクボードが掛けられ、そこにたくさんの写真が貼り付けられていた。その下には長机がおいてあり、そこにも写真、アルバムが陳列されていた。
 学生の他愛もない日常の写真、カップルのデートの写真、結婚式の写真、赤ちゃんの成長日誌、旅行先の写真、七五三の写真、写真、日常、写真、日常。
 コルクボードの上には「持ち主を探しています」と書いた紙が貼ってあった。

 写真が好きだった。理由はなかった。好きだった。
 陳腐な表現しか出来ない。ただただ、泣いていた。
 声もあげず、息も荒らげず、ただ、涙腺が馬鹿になったように泣いていた。
 その日から、写真を好きな理由は、綺麗な物を、思い出を切り取ってそこに閉じ込める事が出来るからだ。そしてそこから取り出すことが出来るからだ。

 その日の夜は、たくさんのことを考えながら、寒さと、雪と、現実と、全てに震えながら仮設住宅の室外機の前で寝た。
 人生二度目の野宿は、2011年12月24日、ホワイトクリスマスイブだった。

「俺の船で寝りゃ」

 次の日、クリスマス。丘を下ってまず平野部を回った。基礎だけ残った建物。折れ曲がった電柱。ひっくり返った橋。瓦礫が撤去されて何もなくなった更地。その瓦礫が積み上げられた川沿い。
 一番驚いたのは、田んぼの中に現れた巨大な漁船だった。そのスクリューはゆうに私の身長を超え、まるで異世界に迷い込んだ気分だったのを覚えている。

 瓦礫の横を歩いていると目に入る、写真、おもちゃ、家具。今はもうない、日常。
 辛かった。あたりには生臭い腐敗臭が漂い、住民の人に聞くとそれは鮭の養殖が津波でやられ、川を遡って死んだせいだと聞いた。いい気分とは言えなかった。女川の時は一緒にいてくれる人がいた。ここにはいなかった。それが辛かった。
 文字通りひっくり返って、裏側が見えた状態で海に沈む橋があった。このサイズのコンクリートの塊を、水の力が返したと思うと恐ろしかった。
 「車の中を覗かないでください」という張り紙を見て、通りかかった人に聞くと「仏さんおるかもしれんからな」と言われ思考が停止した。
 海のすぐ近くに岬のようなところがあり、その上に鳥居があるのが見えたので行くことにした。小さなお堂と、賽銭箱と、ぶら下がった千羽鶴があった。
 崖の方に、よく見かけるポールが立っていた。
 破壊されてしまった港町を見下ろしながら、そのポールは、他のどこかと同じ事を言っていた。

「世界人類が平和でありますように。」

 後から調べて分かったがある団体が立てて回っているものだった。
 この言葉が、この街にこの言葉があることが、意味があるように思えた。

 その日はほとんど街の散策をしていただけで、ボランティアらしい事はしていなかった。当然、人と接する機会も少なく、泊まれる所もわからず途方に暮れていると、黄色い可愛らしいニット帽をかぶったおじいさんと出会った。
 恐らく70代の彼の一言目は「おう?兄ちゃんどっからきた?飲むか?」だった。
 気の良さそうな彼は(今思うと恐ろしくもあるが)ワンカップを差し出して来た。飲みながら、港で起こった事、特に火事の話をしてくれた。
 「生きた心地がせんかったわなぁ」
 ガハハと、彼は笑った。

 「泊まる場所ねえ?ちょっときな」そう言うと彼は近くにあった船に案内してくれた。
 「ほれこれ渡しとくけここで寝りゃ」
 そう言うと私に鍵を渡して来た。本気かこの人、と思った。
 何故出会って15分くらいの、当時二十歳の若造に、自分の船を寝床に提供出来るのだ。「いやいや流石に!それは出来ません」私は思わず断った。
 乗り物にすぐ酔う体質のため、そもそも船では寝れないという問題もあった。
 すると彼は、「じゃあうちで飲むか!」と家に案内してくれた。

 彼は家につくとどこかに電話をかけ始めた。何件か掛けて、10分ほどで漁師仲間という男性2人が彼の家に集まった。
 そこで頂いた酒や魚料理、そしてその時聞いた話。狭い部屋の小さいこたつ、溢れかえった灰皿、穴の空いたちゃんちゃんこ、ブラウン管のテレビ。
 自分でも驚くほど鮮明に覚えている。
 何よりも、窓が割れるほど大声で笑う声が忘れられない。

 その後飲み直すぞと居酒屋に連れて行かれ、更にキャバクラに連れて行かれ、散々な状態で彼の家に帰り、明け方寝た。

 その年、一番笑った夜だったと思う。

 「笑うしかねえよなあ」

 次の日、彼の船に乗り海を見て回った。
 液状化で沈んだ街は幻想的で、不謹慎にも「綺麗だな」という感想が漏れた。
 船に乗りながら、「すごいですね」と言った私に、彼は船を操縦しながらこちらを一瞥もせずに「笑うしかねえよなあ」と言って、んははとまた笑った。

 その言葉を、その時は強がりのように受け取っていたと思う。
 でも、私はこの言葉を聞いた時、自分の居場所に戻らなくてはいけないと思った。
 その時は理由がわからなかった。
 でもたしかに、その言葉で私の旅は終わった。

 その日の夜、再び彼の家に泊まらせて頂き、翌朝連絡先を交換して別れを告げた。

 気仙沼を出発、女川を経由して仙台まで戻り、仙台で一泊した後に東京に戻った。
 こうして、年の瀬に家に帰り着くことで、本当の意味で私の傷心旅行は終わった。

 家に帰り着いた時、「仙台でとんぼ返りしなくてよかった」と、玄関先で大の字に寝転がって笑った事を覚えている。

「笑ってやろうと決めた」

 家に戻ってから、スマートフォンの中の写真を整理した。
 瓦礫の山、沈んだ街、そこで会った人たち。
 想像を絶する事だ。大切な人、当たり前の日常、それが街ごと消されたのだ。
 それでも彼らは、笑っていた。
 笑う為に幸せになるのか、幸せだから笑うのか。そんな事は分からない。何が幸せかなんて、もっとわからない。
 でも、少なくとも辛いことを「辛い」と嘆く事で幸せになれるのだろうか。

 傷心旅行が終わり、年越しを一人で過ごし、初詣に行った。
 「世界人類が平和でありますように」
 本当に柄にもなく、それだけを心の中で願って手を合わせた。

 それから、辛いことがあったらまず「どうやったら笑い話に出来るか」を考えるようになった。怪我をした時、仕事で失敗した時、嫌いな人に絡まれた時。「この話を人に話す時、どうしたら面白く話す事が出来るだろう」。
 そう考えると、この人生に笑えない事ってなかったんじゃないかと思うほど、気が楽になった。
 「笑う門には福来る」
 そんな簡単な事じゃないとは思う。でも少なくとも、泣いて解決しない事を笑ってやり過ごしてやろうと、私はこの旅を通して学んだ。

 絶望に打ちひしがれても、いつかまた心から笑う為に、私は生きようと思った。
 生きたいと思った。

 彼らは、幸せになるために、あんなにも楽しそうに笑っていたのだから。

#あの失敗があったから

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