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わかりやすくて過激な言葉に踊らされていないか?

最近、LGBTには生産性がないと議員が言ったり、SNSでは炎上を恐れない有名人の過激な発言が目立つ。
私も商品の販促の企画を立てる人間として、言葉を生み出し、そして消費することについて最近思っていることを書いてみました。

冒頭にあげたような言葉の共通点はどれもわかりやすいことにある。
「生産性」って現代社会においては圧倒的にいいこととされて、わかりやすい。
ちょっと前に流行った(今言ったら冷笑されるが)「いつやるの?(今でしょ)」も分かりやすい表現で、「考えるよりもとにかく行動を起こせ!そうすれば未来は変わる!(今よりもいい)」という
行動至上主義的な価値観が広がってるのも事実だと思う。
それは、メッセージを発信する側としては成功している。

その受けたメッセージと価値観を誰かに無意識に押し付けていないか?

例えば、「いつやるの?(今でしょ)」は
「いつやるの?今だよね?」と、脅迫に近い。疑問形で相手に聞いているけど、キャッチボールの球は相手の掌に入ることはない。
そして、このフレーズは受験生に向けたメッセージの枠を超えていたるところで使われてるし、色んなところで使ってる。

自分にもそういうところがあることにいつもとは違うコミュニティにいる人と親しく付き合ってみて気がついた。

具体的にいうと、行動を起こせない人に対してかなり批判的な眼差しでその人のことを見ていたし、そこには「とにかく思い立ったすぐ行動に起こすことが大切」という絶対的な正しさが横たわっていた。この価値観は悪いものでもない。危ういのはそれらが絶対的なところにある。それ以外の回答に対して非寛容になることと、相手の考えを一切遮断していてハッとした。
自分も何も考えずに全ての人に対してこの価値観を当てはめて使っていることを。
この世の中の「みんながいい」という価値観に踊らされていることを。

言葉をちゃんと考えて相手に放っているだろうか?

受験2カ月前の受験生の勉強を後押しするのに使う言葉と、人生の岐路に立たされて悩んでる人に寄り添ったり、励ましたりする言葉とでは選ぶ言葉は違うはずだ。
のりで使っている言葉も相手によっては追い詰めているかもしれない。
というか言葉の強度を認識できないくらい、麻痺してしまっているのかもしれない。

過激な言葉は思考停止させる力をもってる

過激な表現は魅力的に見えるし、それに従えばそこにいけそうな気がする。しかも反射的に、衝動的にそう思う。
「いつやるの?」「今でしょ」も間髪を入れず今でしょと決断を迫ってるし、聞かれた方ものせられる。そこにその人の意思はなく、積極的に選択した回答ではない。

聞いて瞬時に「わかる!そうだよね!」ってなるような表現は力強くて時に励ましてくれたり助けになったりするパワーがあるが、同時に思考停止させる表現でもあるのではないか。

そもそもそんな簡単に物事がわかるはずがない。
みんながある言葉を聞いて、すぐ共感して反射的に行動してたら社会は間違いなく言葉を巧みに使いこなす人が望む世界になってしまうような気がしてならない。

「わからなさ」という不確かなことが与えてくれる言葉

そんな風に過激でわかりやすい言葉に踊らされて疲れ切っている時に本屋さんで出会った、齋藤陽道さんの「それでも それでも それでも」からの一節を紹介したい。

巨大なわからなさに立ち会うためにも、目の前のものへ「それでも」と思いを寄せる。より豊かな世界を与えてくれるものとして捉え、「わからなさ」にときめきながら共に遊ぶ、そんな関係でいられるといい。

人生の意味も誰かが生きている意味もその人生を終えて見ないとわからない。
今すぐに行動を起こしても起こさなくても明日がどうなっているかなんてわからない。
あの子のことを好きになったけど、好きになった理由なんて本当は全部言葉にならない。
いつも一緒にいる家族のことだって知っているようで知らない。

ありふれた日常のわからなさに目を瞑り、自分の理解し得ることしか自分の中に取り入れていないことに気がつけた本との出会いだった。

多くの人がコスパ重視でインスタントに情報をインプットしアウトプットする時代だからこそ、心に引っかかりを残して自分との対話がじわじわ始まるような言葉や事柄との出会いを愛おしみたい。

そして、「わかりやすくて過激な言葉」に操られないようにちゃんと「自分の言葉」を創っていきたい。

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