見出し画像

スマホもまた、私を凝視している。

スマートフォンの普及が著しい現代社会、もはや「歩きスマホ」という名詞があるほどに、現代人は常住坐臥、スマホを凝視している。
ブルーライトが目を疲れさせるだとか、常時ネットに接続していることで情報過多になるだとか、スマホによる弊害も露わになってきているが、しかし未だ多くの現代人が気付いていない恐ろしい事実がある。

「私がスマホを凝視しているとき、スマホもまた私を凝視している」ということだ。
ニーチェが『善悪の彼岸』で語った深淵についてのワーディングを拝借させてもらったが、そこはご容赦願いたい。
とまれかくまれ、一方的にスマホの画面を凝視しているつもりの現代人にはぜひとも考えてみてほしい、スマホに凝視されているという事実を。

私は単に、スマホ側から抜き取られている種々様々な情報によって形成されたビッグデータを用いて企業から広告が届けられているだとか、そのせいで「フィルターバブル」が形成されているだとか、そういうことを言いたいのではない。
もっと直接的に、字義通り、スマホに凝視されているということなのだ。

現代人の手に握られていたスマホが、ある日突然、自我を持ち出して襲ってくるかもしれない。
そのとき既に、スマホ側には現代人にまつわるあらゆる情報がインプットされており、それゆえ人類は完全なる敗北を味わうことになるだろう。

じっと私たちを凝視しているスマホが、ついに私たちの解析を終えたとき、そのときこそスマホによる大反乱が幕を開ける。
だから私たちは常に心にとめておかなければならない。
歩きスマホはダメだということを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?