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読書ノート 「ギリシア哲学史」  納富信留

 「ギリシア哲学とは、紀元前6世紀初めから紀元後6世紀前半まで、地中海東部から西ヨーロッパの地域で、つまり、ギリシアのポリス世界からヘレニズム世界を経てローマ帝国まで、古代ギリシア語およびラテン語で営まれた、キリスト教以外の哲学である」

 ということは、約1200年続く、長期に渡る文化形態であり、日本の平安時代から現代までの時間とほぼ同じ期間、積み重ねられた思考法なのである。そんなにすぐに理解できると考えるほうがおかしいのである。と思っておこう。

  

ここでは特に、プラトンについて記述する。

  • 19世紀初頭に「プラトン著作集」をドイツ語訳したシュライアーマッハーは対話篇にのみプラトン哲学を求める姿勢を打ち出したが、20世紀後半にドイツのテュービンゲン大学やイタリアのミラノ・カトリック大学の研究者たちがそれに反対して、『パイドロス』と『第七書簡』を典拠にして「不文の教説」を中心に置く体系的解釈を展開した。テュービンゲン・ミラノ学派では、プラトンは完全な哲学理論体系を備えていたが、最も大切な教義は口頭でのみ伝え、対話篇にはあえて書かなかったという「秘教的」解釈が示された。


  • いわゆる「イデア論」にあたる議論は、『饗宴』『パイドン』『ポリティア』『パイドロス』といった中期対話篇の特徴的な箇所で提示される。それらはプラトン対話篇のごく一部に過ぎず、その後『パルメニデス』でイデア論は批判的検討の対象になり、後期『ティマイオス』『ソフィスト』『ポリティコス』『ピレボス』に登場する「イデア、ゲノス(類)、エイドス(種、形相)」はすでに中期とは何らか異なった枠組みに置かれている。つまり、プラトンの著作中でイデア論はごく限られた場面でしか登場せず、その扱いには慎重さが必要なのである。イデア論の典拠とされる中期対話篇に関しても、文脈や語り方に意図的な曖昧さが見られる。それは、普通に言葉にできないものをあえて言葉で語り出そうという躊躇いと冒険がもたらす緊張に見える。


  • 『饗宴』ではソクラテスの口から巫女ディオティマの言葉として語られる愛の奥儀で「美それ自体」のあり方が開示される。これがプラトン対話篇で「イデア」が初めて語られる場面だとすると、被疑的な語りの唐突さ、神憑り的な緊張、議論の簡潔さは異常である。『パイドロス』でも類似の仕方で、ソクラテスが霊感を受けて語る魂のミュートスでイデアが登場する。天上で飛翔していた私たちの魂はかつてイデアを観想していたのである。『パイドン』では、魂の不死をめぐる複数の場面でイデアが語られる。哲学とは死の訓練であるとする魂浄化の言論で、イデアは魂それ自体が観想する叡智の対象とされる。想起説や類似性による議論、そしてイデア原因論でイデアが語られるが、それらをつなぐ一つの理論は提示されない。イデア論の典拠となる『ポリティア』でも、正義を論じる全10巻のうちイデアは第5巻後半から第7巻までの中心巻と第10巻前半で論じられるに過ぎない。中心巻でも「善のイデア」は「太陽、線分、洞窟」という比喩を通じて示される。


  • プラトンの哲学がイデア論という形而上学を中心にするとしたら、なぜこのような周縁的で断片的、あるいは秘教的、比喩的な扱いしか与えないのか。従来の研究はその違和感を無視しつつ、安易な仕方で「イデア論」を固定的な教説として論じてきた。それはアリストテレスによるイデア論解説を受け売りして存在論を自明な哲学の一般考察とする西洋哲学の伝統となる。だが、そこに含まれる問題性は、こういった特殊な語り方を余儀なく採用していたプラトン自身が最も強く意識していたことであり、『パルメニデス』第一部があえて批判を向けた点であった。


【イデアの離在と分有】

  • 相反する現れから同一のイデアへの離在は、それを認識する私たち自身の変容と相即的である。肉体と魂の混合状態にある私たちは、感覚を通じて「あり、かつ、ない」感覚的自体に関わって生きている。そこから浄化によって魂それ自体である「知性」が働き、イデアと関わる「叡智」というあり方を得る。私たちが目指す生き方は左図での下段から上段への移行である。

イデアと感覚物は、 いわばモデルと像の関係にある
  • 主体の変容と現実の開示とは対をなす柱であり、共に上昇することがイデア把握である。主体の超越体験に応じて「ある」が離在し、世界が変貌すること、つまり二つとなることがイデア論の核心である。

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