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読書ノート 「日没」 桐野夏生

 新型コロナウイルス感染症の日本における第六波がそろそろピークアウトしそうな2022年2月に『日没』を読む。もう一年以上も前のこと。

 『小説家・マッツ夢井のもとに届いた一通の手紙。それは「文化文芸倫理向上委員会」と名乗る政府組織からの召喚状だった。出頭先に向かった彼女は、断崖に建つ海辺の療養所へと収容される。「社会に適応した小説」を書けと命ずる所長。終わりの見えない軟禁の悪夢。「更生」との孤独な闘いの行く末は─』(岩波書店HP・あらすじ)


 2時間程度で一気読み。途中で止めることを拒絶する緊迫感があった。言ってみるなら、カフカ「審判」とオーウェル「1986」の日本現代版、といったところだろうか。焚書・個人情報の全体主義的管理、保護の過多の観点から「1986」との類似性を上げる評論は多いが、「審判」との類似性を指摘するものは見かけない。「恥辱だけが残った」、「審判」の主人公と、自らの意志(これを自らの意志とは言えないだろうが)で死を選ぶ「日没」の主人公の違いを考えてみてもいいのかもしれない。
 病院の不条理さはこちらも感覚的にわかる。CTに入るのさえ恐怖に感じる人間には、そりゃ拘束着は極限の恐ろしさである。主人公の意志が弱まっていく様子がリアルで、われわれは、こうなる前に手立てを打たないといけない。世情がそうでないから桐野夏生は、「警告」するためこの小説を書いたのだ。

 愚かな私はこの小説世界が現実になるとは思わない。局所的にそのような場所や時間が訪れるかもしれないが、それは一時のことであり、そこから健常に戻る動きが必ずやある。人間はそこまで愚かではないという気がするが、しかしそれを確証付ける根拠も私にはないのである。

 NHKラジオ『高橋源一郎の飛ぶ教室』で、この「日没」が取り上げられた。
 ヘイトスチーチの規制→禍々しい表現の規制→それを決めるのは読者→自分の意見ではなく、社会・読者の意見が決める→責任は私にはない→面従腹背で社会に合わせた方便を書く→次第にそんな自分に変質する。その姿を恐怖とともに警鐘を鳴らすものであった。

 表現への注文は現実にある。その延長線上が『日没』にならないとも限らない。今普通に起きているのは、批判もできない世界の現出。そんなときにロシアのウクライナ侵攻が起こり、世界は逆戻りを始めたのであった。


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