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読書ノート 「河合隼雄と箱庭療法 箱庭療法学研究 第21巻特別号」 日本箱庭療法学会編集委員編  

 令和の子どもたちは公園の砂場で遊んでいるのだろうか。

 昭和40年代に小学生であった私は当時、思いっきり砂遊びをしていた。大人たちは現在のように砂に交じる不純物や雑菌の衛生状態などにほとんど何の目配せもなく、子どもたちは何の制約もなく泥だらけになって遊んでいた。

 砂場にバケツの水を持ち込み、砂を固め、巨大な富士のような山を作り、その中腹からトンネルを掘ったかと思えば、外的防御の堀を縦横無尽に網目のように整地し、ヨーロッパ風の城下町を作る。ウルトラマンや怪獣のビニール人形を持ち込み、戦いの一大叙事詩を自ら動かす。砂山に埋め込まれたウルトラマンは友の祈りによって復活し、怪獣たちは地中深く追放される。その怪獣も瞬く間に地上に這い出し、永遠に戦いは続く。

 工作技術に秀でた友は、トンネルを交差・合体させ、地下迷路を作り出す。それを見て皆が真似をし、我も我もと砂場を掘り返し、びしゃびしゃになるまでバケツの水を投入する。砂場の底のコンクリートまで掘り返すなどということも目撃した。もうここまで来ると、彫像家、左官、彫刻家の域なのだが、それを複数の小学生がイマージュを膨らましながら「いまここだけの世界」を構築するのであった。

 これを学校帰りの数時間で展開し、夕暮れとともにいともあっさりとその世界と別れ、家路につく。得難い体験であった。


 「トポスの知 箱庭療法の世界(河合隼雄・中村雄二郎)」を購入し読んだのは、高校時代、岩波から出ていた雑誌『へるめす』を読んでいた時期であった。画期的だと思った。心の悩みを砂の入った箱庭遊びで治療する、ということ自体が新鮮であったことに加え、その事例に出てくる患者の心情の吐露がとても身につまされた。夜、寝ている間に大変な精神的労力を使って世界構築をしている患者が、覚醒してからの昼間にもう力尽きて何もやる気がしない、というような心情。まさしくその通り。ある種の人は世界に対して繊細で真摯で勇敢で冒険的にならざるを得ず、だからこそ日常から逸脱することがあるのだ。

 

 この「河合隼雄と箱庭療法」は、河合隼雄が亡くなって一年が経ち、それを記念に行われた学会のシンポジウムの全容である。第一部は二人の講師の基調講演、第二部は事例研究、第三部は事例研究を元にした招致講師を交えてのディスカッションとなっている。招致講師は脳科学者の茂木健一郎とシェイクスピア翻訳家の松岡和子、事例発表は高野祥子、学会側は河合俊雄、川戸圓他である。


 講師二人の講演もさることながら、高野が紹介した事例研究には目を見張るものがある。初期に当該事例を河合隼雄が「これは重症なので7年はかかる」というその慧眼には感動すら覚えるし、長い治療期間で作られた箱庭のダイナミックで切迫感・緊迫感の総熱量の高さに圧倒される。河合俊雄が「箱庭療法の作品というものが、全部これほど迫力のあるものではない」と断りを入れるぐらい、凄まじいイメージの噴出である。並走した治療者のエネルギー消費は大変なものであろう。


 箱庭療法が現実的に治癒の効果があることには、ノンバーバルコミュニケーション的な手法に理由があるとされている。「言葉」の限界を示す好事例ではないだろうか。

 「言葉でのやりとりを中心にしていると、どうしてもそのあたりのひっかかり(クライエントの症状・逡巡)がすごく増していくと思います。それをイメージでやると、わりとピュアにその人の進んでいきたい方向、あえて言うならその人の魂の進んでいきたい方向に付き合っていける。その姿勢が大事」と河合俊雄は言う。何が治癒かは、一般論では絶対に言えないし、治ることが良いのかどうかも実は個別案件なのだ。


「クリエイティビティというのをどう考えるか」河合俊雄は、その動きを見たいという。美しいだけでなく、本物は醜いこともある。クリエイティビティというのは「この人のつくっているある種の世界」なのだ。だから、小説・物語は醜いこともある。醜ければ醜いほど、もしかしたらリアリティーは高いのかもしれない。まあ読む人が喜ぶかどうかは別の話。

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