カミュ『ペスト』、デフォー『ペスト』、チャペック『白い病』など、伝染病にまつわる小説・物語が伝えるものは何であろう。その悲惨さ、不条理さはそれらに余すところなく描かれているが、伝染病そのものを統制し抑止し、防ごうとした者たちの記録はどこにいったのだろうか。たぶん、どこかしこにはあるのだろうが、それが周知の目に触れることは少ない。なぜなら、それは失敗と後悔、無粋な無自覚と狭苦しい無反省の塊であろうから。
社会をしなやかに動かすこと、危機的な状況の社会全体を俯瞰して動かすことなど、人間世界ではここ最近まで不可能に近く、それこそ神の所業であったのだ。それをこの現代で、この日本で請け負った人たちがいるとするなら、それはこの新型コロナウイルス感染症に立ち向かった医療専門家たち(と行政施行者)であるといっても間違いではないであろう。
2019年から2023年までの間で、尾身さんの顔を覚えた日本人はたくさんいる。総理大臣を知らなくても尾身さんは知っているという人もたくさんいるのではないか。専門家が政治・行政の代表でコロナ対策に前面に立つようなイメージを持っている人も多いが、無論この著書でも明示されているように、尾身さんたち専門家がコロナ対策を決定していたわけではない。しかしそうならざるを得ない状況がそこにはあった。この著作は尾身さんの残した「宝物」である。こんな記録、そうそう他にはない。
その昔、社会へコロナ対策の提言を企画・作成した経験から、その当時何が足りてなく、何が必要かを模索したことと、尾身さんたち専門家が苦悩していたことが裏と表の関係であるように感じる。あの頃、皆が同じ方向を見ていた、と、ここに来て感じられる。それは自然災害に対するある種の諦念とは少し違い、「どう転んでも同じ」ではなく、「やりようによっては道が拓ける」希望をつかもうともがいていたのであり、そのあがきが、「宝物」になっていくのだ。
私たちは歴史の生き証人になれるだろうか。
偏光眼鏡をかけてはいないだろうか。