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読書ノート イブン・アラビー著『叡智の台座』第 12 章「シュアイブの言における心の叡智の台座」相樂 悠太訳

「井筒俊彦ざんまい」にも言及されているように、イブン・アラビーの主著である「叡智の台座」はいまだ日本語訳がない。読みたいなあとネット検索をしていたら、慶應義塾大学, 言語文化研究所, 特別研究員(PD)の相樂 悠太さんという方が、部分ではあるが翻訳し、公開しているではないか。早速読ませていただき、メモっています。その後にもイブン・アラビーの研究を継続しているらしく、陰ながら応援しております。いつか岩波文庫になればいいな。
 ここでは論文の前段と、主部である翻訳「第12章・シュアイブの言における心の叡智の台座」を少し意訳・改変させていただき、わかりやすくしたものを提示します。

本稿は「最大の師」(al-Shaykh al-Akbar)と称されるイブン・アラビー(Muyī al-Dīn ibn ‘Arabī, d. 1240)の晩年の著作『叡智の台座』(Fuū al-ikam)第 12 章の翻訳である。

イブン・アラビー はイスラーム神秘主義の歴史上最も名高い思想家であり,イスラーム思想史の中でも哲学者イ ブン・スィーナー(Ibn Sīnā, d. 1037)や神学者アブー・ハーミド・ガザーリー(Abū āmid al- Ghazālī, d. 1111)と並ぶ巨大な存在である。彼は南スペインのムルシア出身のアラブ人で,北ア フリカ,西アジアを旅し,ダマスカスで没した。ほかの有名な著作には 560 章からなる大著 『マッカ開扉』(al-Futūāt al-Makkīya)や神秘主義詩『欲望の解釈者』(Tarjumān al-ashwāq)があ る。「存在一性」(wada al-wujūd)論や「完全人間」(insān kāmil)論を構想し,それ以降のスーフィーたちの思想に大きな影響を与えた(1)。

『叡智の台座』はイブン・アラビーの著作のなかで最も広く読まれており,彼の思想に対す るこれまでの研究では『マッカ開扉』と並んで頻繁に用いられてきた。この著作はダマスカスで 1229/1230 年に書き始められたとされる(2)。本書は 27 章からなり,アーダムからムハンマドに 至る 27 人の預言者が,それぞれひとつずつの神的な知を開示するという形式をとる。この著作には後代に 100 点以上もの多くの注釈書が著された(3)。

「シュアイブの言における心の叡智の台座」(faṣṣ ikma qalbīya fī kalima Shuʻaybīya)と題された 第 12 章は,本書の中でも比較的重要視され,内容が論じられることが多い章の一つである (Nettler 2003; 小野 2014, 110–111; 澤井 2016, 29)。

本章でイブン・アラビーは章題にある「心」 (qalb)というイスラーム神秘主義思想における基本的概念を,「顕現」(tajallī),「完全人間」, 「新創造」(khalq jadīd),「信仰のうちで創られた絶対者」(al-aqq al-makhlūq fī al-i’tiqādāt)に関する自身の中心的教説に言及しつつ論じる。

本書では章ごとに当てられた特定の預言者の物語が しばしば言及され,預言者たちの系譜の中での彼の役割や性格を論じるかたちで章ごとの主題 をめぐる議論が展開することが多い。この章には預言者シュアイブが当てられており,諸信仰 の根本的一性という主題と彼の関連性が示唆されてはいるものの,章全体を通してみれば彼の名に触れられることは少なく,他の章と比べて預言者論としての性格は薄いという特徴をもつ。

底本としては,『叡智の台座』を扱うほとんどのイブン・アラビー研究者が依拠する‘Afīfī の校 訂版を使用する(4)。

イブン・アラビー著『叡智の台座』第 12 章「シュアイブの言における心の叡智の台座」相樂 悠太



第 12 章「シュアイブの言における心の叡智の台座」(sakazuki改変)

 
わたしの言う事を聞いて。知って。心は神の慈愛に由来する。これが一番言いたいこと。

 心は、神の慈愛よりも広い。というのも、心は絶対者を含むけど、神の慈愛は絶対者を含まないから。絶対者は慈愛の主体で慈愛の客体ではないから、慈愛が神自身に対して力を及ぼすことはない。

 難しい言い方をすれば、それは神が自身を「吹き込むこと」に由来する言い方。また諸々の神の名は、名の対象と同一であり、名の対象とは「彼(絶対者)」に他ならないということ。

 諸々の神の名は、自らが授けるべき実質を求め、諸々の名が求める実質とは、宇宙に他ならない。神性は神性の対象を求め、主性は主性 の対象を求める。そうでないと、その対象なしでは神性や主性には存在においても予定においても本質がなくなってしまう。

 絶対者の本体は宇宙を必要としないけど、主性はそういうわけにはいかない。ことがらは、主性が求めるものと、神の本体の宇宙からの独立のあいだにあり続ける。そして主性は、実相においても属性においても、この神の本体と別のものではない。

 ことがらは関係性によって相反するので、そのゆえに絶対者がしもべに対する憐憫によって自身を形容したことが伝承の中で語られる。慈愛者に帰された息吹によって主性から吹き込ま れた最初のものは、主性の実相とすべての諸神名が求める宇宙への存在賦与によって吹き込まれる。このことから、神の慈愛は万物を含み、絶対者を含むのであり、心と並ぶ広大さをもつということが確定する。


 そして次に、絶対者は顕現に際して変容する。また絶対者を心が含むとき、彼以外の被造物をともに含むことはなく、絶対者が心を満たすかのようになる。このことは、心が自らに対して絶対者が顕現するのを見るとき、彼以外のものをともに見ることはできないということ。

 真なる知者の心の広大さは、バスターミーが「もしも玉座とそれを囲むものが一億倍にされて真なる知者の心の片隅に あったとしても、真なる知者の心はそれを感じない」と言ったとおり。この意味について ジュナイドは「生成物が永遠なる者と結びついても、永遠なる者に跡が残ることはない」と言った。永遠なる者を含む心が、どうして存在者である生成物を感じるだろうか。

 絶対者が多様化するとき、その顕現は諸々の姿形をとる。ゆえに必然的に、神の顕現がそこで起こる姿形にしたがって心は広がったり狭まったりするのであり、顕現の姿形を少しも超えることはない。真なる知者あるいは完全なる人間の心は指輪の宝石の位置のごときものであり、自らの形は宝石が円形ならば円形であり、また宝石が方形や六角形、八角形やその他の形ならば、方形や六角形、八角形やその他の形となり、その形を超えることなくその形にしたがう。指輪の宝石のあるべき場所は必ず「宝石」と同様になるのであるから。これは、「絶対者はしもべの側の準備にしたがって顕現する」、とスーフィーの集団が示していることの反対のようだが、実はそうではない。というのも、絶対者がしもべに顕現する姿形にしたがって、しもべは絶対者に対して顕れるのであるから。

 これは、神に不可視の顕現と現象の顕現という二つの顕現があるということである。不可視の顕現によって、神は心に準備を与える。不可視の顕現は本体の顕現であり、その実質は不可視界である。不可視の顕現は、「彼」という神の自身についての言葉によって神が有する彼性である。いつまでもずっと「彼」は神のものであり続ける。そしてこの準備が心に生じたとき、現象界のうちで現象の顕現が心に起こり、心は神を見る。先述の通り、心に対して顕現するものの姿形によって神が顕れる。「万有を創造し、一人ひとりに、姿や資質そのほかを賦与され」という言葉によって、いと高き彼が心に準備を与える。そして神としもべのあいだの覆いを取り、しもべは自らの信仰の対象の姿形のうちに神を見る。それはしもべの信仰そのものである。

 心も目も、絶対者に関する自らの信仰の対象の姿形以外のものを見ることは決してない。信仰の対象のうちの絶対者とは、心がその姿形を含んでいるものであり、心に対して顕現し、心がそれを知るものである。目は信仰の絶対者のみを見る。諸信仰が多様であることはきわめて明らかである。神が顕現するとき、神を限定する者は、自らがそれによって限定したもの以外のものに関して神を拒絶し、自らがそれによって限定したものに関しては神を認める。神を限定から解き放つ者は、神を拒絶することはなく、そのうちで神が変容するすべての姿形に関して神を認め、自らに対して無限に顕現するものの姿形の範囲を、自分から神に与える。というのも顕現の姿形には終わりがないのだから。 これと同様に、神についての知にも、真知者がそこで立ち止まるべき極はない。否、真なる知者はいつでも神についての知の増大を求めるのである。繰り返し、「主よ、わたしの知を増やしてください」 と。


 あなたが絶対者と被造物と言う場合、両方のことがらに限りはない。「わたしは彼が歩むための脚、彼が打つための手、彼が語るための舌」であり、その他の諸能力、またそれら諸能力の場である諸器官であるという神の言葉をあなたが見る場合、あなたは区別せず、事象はすべて絶対者であると同時に被造物であると言うだろう。それは、ある関係性によっては被造物、別の関係性によっては絶対者であり、本質は一つである。顕現するものの姿形は、その顕現を受ける者の姿形に等しい。それは顕現者であり被顕現者である。見よ、彼性における、また諸美名の実質の宇宙への関係性における、神のことがらが何と不思議なことか。


 誰がいて 何があるのか        彼がいて それがあるのだ

 選ばぬことは選ぶこと       選ぶことは選ばぬこと

 そのもののほかにそのものはなく  光そのものが闇なのだ

 これに気づかぬ者はみな      自らの嘆きに気づくだろう

 われらのことばがわからぬだろう   不安になやむしもべのほかは


 ほんとうにこの中には心ある者への教訓がある。神は「理性ある者へ」とは言わない。理性は足枷であり、事象を一つの性質のうちに閉じ込めるが、事象それ自体の実質は閉じ込められることを拒むからである。 ゆえに、それは理性ある者への教訓ではない。彼らは、お互いに不信心者と蔑み合い、呪い合う諸信仰の持ち主たちである。彼らを助ける者はない。信仰の神は、別の信仰の神への力をもたない。信仰の持ち主は、自らの神について自らが信仰することを支持し擁護するが、この彼の信仰は彼を助けない。このゆえに、信仰にはその信仰のために闘う者への効力はなく、彼には彼が信仰する神からの助けはない。ゆえに「彼らを助ける者はない」のである。

 個々別々の諸信仰の神性から信仰者を助けることを絶対者は拒否する。 助けられる者も助ける者も一つである。真なる知者にとって絶対者は、拒絶されることなく知られる者である。現世におけるこの知られる者としての神の徒は、来世においても知られる者としての神の徒である。このゆえに神は「心ある者へ」と言った。心は姿形のうちの絶対者の変転を、形態のうちで自らを変転させることによって知る。自分自身を知る者は神自身を知る。

 神自身とは絶対者の彼性にほかならない。存在界のうちの、現在在るものとこれから在るであろうもののうち、絶対者の彼性でないものは何一つない。それは彼性そのものである。ゆえにこの姿形に関しては真なる知者であり知者である者も、別の姿形に関してはその限りではなく、前者において神は神として承認されるが、後者においては拒絶される。 これは統合の目によって顕現と目照から絶対者を知る者からの分け前である。それは、「変転のうちで多様化する心ある者へ」という神の言葉である。

 信心の徒についていえば、彼らは追従者であり、預言者たちや使徒たちが絶対者について告げたことに関して彼らに追従するのであり、思弁の徒 や到来したお告げのすべてを理性的証拠に基づいて思弁によって解釈する者たちに追従するのではない。彼らは使徒たち──彼らの上に神からの祝福と平安のあらんことを !──に追従する者たちであり、預言者たち──彼らの上に神からの祝福と平安のあらんことを !──を通じて神のお告げが伝えたことに「耳を傾ける者」といういと高き神の言葉で指された者たちである。

 この耳を傾け、注視する者には「想像の臨在」とその働きについて知らされる。 それは預言者──彼の上に平安あれ!──が善行について言った「目の当たりにしたかのごとく 神に仕えるように」という言葉である。神は礼拝者のキブラ(礼拝する方向)にいるのである。このゆえに彼は 「注視する者」である。思弁的思考の徒に追従し、思弁的思考に縛られた者は「耳を傾ける者」ではない。この「耳を傾ける者」は間違いなく、先述のことを注視する者だからである。先述のことを注視する者でないかぎり、この章句で指された者ではない。 彼らは、彼らについて神が「その時指導者たちは追従者を見捨てて」と言った者たちである。指導者である使徒たちが追従者たちを見捨てることはない。聖なる者よ、われわれがこの心の叡智においてあなたに述べたことを実現せよ。

 心の叡智に預言者シュアイブが当てられたことについていえば、それは心の叡智の中にある分枝のゆえである。すなわち、心の叡智は分枝によって限定されない。あらゆる信仰は枝であり、心の叡智は諸々の枝、すなわち諸信仰のすべてであるから。覆いが取り去られるとき、万人に対してそれぞれの信仰にしたがって開示がなされる。自らの信仰に反するかたちで開示がなされることもある。それは「その時彼らが思い及ばなかったことが、神から彼らに現わされよう」という神の言葉が示すことである。その多くは、悔悟せずに死んだ不服従者に対する神の脅迫の徹底を信じるムウタズィラ派のような者である。彼が死に、神のもとで慈愛を受けたとき、彼が罰せられないということによって神慮がまずそこにあり、神は赦したもう慈愛者であると知られ、彼が思い及ばなかったことが、神から彼に現わされる。

 彼性についていえば、しもべのうちのある者は自らの信仰によって、神はこれこれの通りだと断言する。覆いが取り去られたとき、彼は自らの信仰の姿形を見るだろう。それは真理であり、姿形への信仰である。結び目は緩められ、信仰は消え、観照による 知へと戻るだろう。視力が活発になったあとで、眼差しが弱まることはない。姿形のうちのさまざまな顕現によって、しもべたちのうちの一部の者に対して自らの信仰とは異なるものが現 れ、見られる。顕現は繰り返されないのであるから。彼性に関する次の言葉はこれに当てはまる。神の彼性について「その時神から彼らに現わされよう」、彼性について覆いが取り去られる前には「彼らが思い及ばなかったことが」。

 神的な真知に関する死後の上昇のありようについて、われわれは『顕現の書』の中で、開示に関してわれわれが同意する集団について述べる際にすでに述べた。この問題に関して、人々がもたないものをわれわれが彼らに与えることはできない。 次のことは最も不思議な事象の一つである。ある人が絶え間ない上昇のうちにあるのだが、覆いが繊細で薄く、「彼らには、それほど似たものが授けられる」という神の言葉のとおり姿形が似通っているために、彼はこのことに気づかない。それは一つのものではなく、本質は別である。真なる知者にとって二つの似通ったものとは、二つの似通った別のものだからである。

 実現の徒は、諸神名の実相が相異なり多様であるが、それらの指し示す対象 は一つの本質であることを知るように、一の中に多を見る。この多性は一なる本質のうちで理解される。顕現に関しても、一なる本質のうちに目照される多性がある。質料があらゆる形相のもとにあり、形相の多性と相違性にもかかわらず、実際にはそれらの形相の 質料である単一の実体に帰されるように。この真知によって自らを知る者はその主を知る。彼は神の姿に創られた、否、彼は神の彼性と実相そのものであるから。

 ゆえに、知者たちのうちで使徒たちとスーフィー(神秘主義者)たちからなる神的な者たちのほかは、誰も自分自身の真知と実相を見出すことがない。古代の者たちや神学者たちからなる思考の徒、思弁の持ち主たちによる自分自身とその概念に関する言葉についていえば、自分自身の実相を見出した者は彼らの中にはおらず、思弁的思考が自分自身の実相をもたらすことは決してない。自分自身についての知を思弁的思考によって求める者は、膨れ上がった腫れ物の持ち主であり、火のないところに息を吹いている。たしかに「つまり自分では善いことをしていると、彼らは考えているが、現世の生活においての努力が、すべて間違った道に行ってしまうような者たちである」。神の道以外によって物事を求める者は、その実現をなしえない。

 宇宙と息吹ごとのその転変について、それが一なる本質における新しい創造のうちにある、といと高き神が言ったことの何と美しいことか。人々、否、宇宙の大部分については「いや、彼らは新しい創造について疑いを抱いている」と神は言った。彼らは息吹ごとの事象の更新を知らない。しかしながら、アシュアリー派は諸存在者の一部である偶有について更新を認める。また憶測の徒は宇宙全体について更新を認め、思考の徒は彼らをまったくの無知とみなす。とはいえ、両方の陣営が誤っている。

 憶測の徒の誤りについていえば、それは宇宙における転変を主張するにもかかわらず、この姿形を受け入れる実体の本質の一性を認めないことによる。この姿形がその実体によってのみ思惟されるのと同様に、その実体はこの姿形によってのみ存在するのであるが。もしも憶測の徒がこのことを主張したならば、彼らは事象に関する実現の段階に至ることができる。

 アシュアリー派についていえば、宇宙全体が諸偶有の総体であることを彼らは知らない。 偶有は二つの時にわたって持続しないから、宇宙はあらゆる時において転変する。 彼らの誤りは事物の定義の中にみられる。彼らが事物を定義するとき、 彼らの定義の中で事物が諸偶有であるということ、そして事物の定義の中で述べられたこの諸偶有は、自存者であるこの実体とその実質に等しいが、偶有であるという点では事物は自存者ではないということが説明される。つまり本質的に自存者である実体の定義の中で場所を占めることが言及されるように、自存者ではないものの総体から自存者が生じることになる。

 またアシュアリー派によれば、諸偶有に対する受容性も実体の本質的定義である。 だが受容性は受容者のうちにしか存せず、自存者ではないのであるから、受容性は疑いなく偶 有である。それにもかかわらず、受容性が実体にとって本質的であると彼らは述べる。ま た場所を占めることも場所を占めるもののうちにしか存しない偶有であり、したがって自存者ではない。そして本質の定義とは定義されたものとその彼性そのものであるから、場所を占めることも諸偶有に対する受容性も、彼らによって定義された実体の本質に付加される事象ではない。ゆえに二つの時にわたって持続しないものが二つ以上の時にわたって持続することになってしまい、自存者ではないものが自存者であることになってしまう。彼らは自分たちの陥っていることに気づかない。

 開示の徒についていえば、神がすべての息吹において顕現し、顕現は繰り返されないことを彼らは見る。また、すべての顕現が新しい創造を与え、同時に被造物を消し去ることをも彼らは目照によって見る。被造物の消失は顕現に際する消滅に等しく、存続は別の顕現が与えたものによる。理解しなさい。




相樂2017年の論文「イブン・アラビー思想における「心」(qalb)と「変転」(taqallub)の意味連関 ──先行スーフィーとの比較を通じて──」によると、

「心」はイスラーム神秘主義思想において人間霊魂を指す用語の一つである。スーフィーたちはしばしば「心」を、q-l-b という同一のアラビア語語根に由来する「変転(taqallub)の概念を用いて説明している。すなわち、「心」は「変転」するがゆえに「心」と呼ばれるのである、とされる。

「イブン・アラビー思想における「心」(qalb)と「変転」(taqallub)の意味連関 ──先行スーフィーとの比較を通じて──」

こころ、ころがれ、ころがれ、こころ、と思ってしまう今日この頃です。


https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/34/1/34_63/_pdf/-char/ja


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