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読書ノート 「木のぼり男爵」 イタロ・カルヴィーノ 米川良夫訳

 イタロ・カルヴィーノ『われわれの祖先』三部作の一冊。『まっぷたつの子爵』(1952年)、『不在の騎士』(1960年)の間である1957年に刊行された。主人公のコジモ・ピオヴィスコ・ディ・ロンドーは叔父の持ってきたカタツムリ料理を固辞し、樫の木に登って食事を強制されることに異議申し立てをする。父は「疲れて気の変わるまで、そうしていなさい!」と言い放ったのに対し、「気はけっして変えません!」と返し、さらに「おりる時は、覚悟をしておきなさい!」と畳み掛けたのに対し、「じゃあ、ぼくはもうおりません!」と宣言し、その後、この物語が終わるまで、彼は地上におりることはなかった。


 彼は、木の上にいながら、勉学も、生活も、恋も、社会活動も、何もかも通常の人々同様(もしかしたらよりも優秀に)暮らしをすすめた。失恋が彼の心を狭めることもあったが、彼を信奉するものもいて、けっして孤独ではなかったのではないだろうか。65歳になったコジモは、イギリス人の気球に飛び乗り、姿を消した。すでに病弱となっていた彼がその後どうなったかは記述されていない。

 彼は初動の決意を守り切ったと言えるのだ。個人の判断・決意による行動を、なにものからも曲げられることなく、生の終わりまで完遂することのできたコジモはある意味幸福である。語り部である弟の視線からもそうした羨望の眼差しが窺える。社会的な生き物である人間がその暮らしの中で、他者との関係性を保ちながら、個人の個性を貫き通すことの困難さ、重要性を意識するとともに、それによる充実、それを実現する工夫が現実にもしあるとするならば、この風刺物語はその目的を達成している。


 嫉妬が彼を狂気の世界に誘ったのだが、その嫉妬は孤独と不認知から生成されている。その狂気は聖性を帯び、世間から排除された彼はある種の権力の要素を身に着け、その神性を利用しようと疚しき輩たち(フリーメイソン)が近づいてくる。新しい儀式やシンボルとしてコジモは利用され、その結果ナポレオンに拝謁するところまでいくのである。それも樹上から、ナポレオンを見下ろす形で。


 時は移ろい、ナポレオン親衛隊、第三軽騎兵連帯の三人が敗戦の帰路の途中で、コジモは彼らの世話をする。「ヴェルナの敗残兵さ!」。その後、ロシアの軽騎兵隊が追いかけるようにしてやってくる。ロシア軍の将校とコジモは会話する。


 「(ここは)どんなぐあいでしたか?」(ロシア将校)

 「ご承知でしょうが、あなた、軍隊というものは、いくら、どんな思想をもたらしてくれても、破壊していきます」(コジモ)

 「そうです。わたしたちもたいへんな破壊をしていくのです…でも、わたしたちは思想をもたらしません…」(将校)

 「数年来、わたしは最善をつくして恐ろしい、ただひとつのことをしてきました。戦争です…」(将校)

 「そして、それもただ、わたし自身、ほとんど説明もできないような理想のためなのです…」(将校)

 「わたしも」とコジモが答えた。

 「何年来というもの、自分自身でさえ説明しかねる理想のために生きています。でもわたしは、まったく善いことをしています。木の中で暮らしているからです」


 現在のウクライナを破壊するロシア兵たちも、同じことを考えているのだろうか。個性を踏み倒していく戦争に比べれば、木の上で暮らすことなど、何の変哲もない平和である。

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