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連載小説【揺動と希望】 1−3

【1-3】 



 ミサキは夢を見ている。

 スマホを見ると〇〇さんからLINE。

 「もへとしねへらむとなんて」

 「はるこなすめんとをしんども」

 「たぶおむしからべできのるです」

などとかかれており、ああ、もう限界超えたんだ、と愕然とする。

 へとへとなんだ、と思う。 


               *


 宗教団体の集会にいる。集合者の最前列にいる。教祖と言うよりは司祭、であろう黒人の男性がやってくる。彼の服はクリムト『接吻』の男が着ているような煌びやかなものである。前に来て、黒人はニヤッと笑う。その笑いは世俗的だ。

 黒人司祭は静かに身体を揺すり出し、蚊の鳴くような小さな声を出す。その声にはリズムがあり、徐々にメロディを紡ぎ出す。声は大きくなる。そのメロディは聞き覚えのあるもので、ミサキは応じるように、寄り添うように口遊む。


タンタラタン、タンタラタタン、タンタラタン・・・

タラッタラッター、タラッタラッター、タータタン

タラッタラッター、タラッタラッター、タータタン


 『ヘイ・ジュード』だ。ジョン・レノンがポール・マッカートニーの前妻の息子を慰めるために作った曲。ここでは、「ジュード」は「ジーザス」であろう。リズムは高まり、ついには司祭とハーモニーを奏でる。彼の大きな口の奥は、空洞だ。空洞であるばかりでなく、そこから頭蓋骨の向こう側が透けて見える。頭の内側はまったくの空っぽだ。裡頭の後方に大きな穴が空いており、後方の建屋の風景がそこから見て取れる。傷口なのか、その穴の縁には包帯のかけらが付随しているものの、歌うたびに鞴で空気が送られるように、その包帯がひらひらと揺れる。


 歌い終わると、從女(彼女も煌びやかな礼装をし、黒い瞳を艶やかに輝かせている)が近づき、「これを、彼の背中に」と言って塗り薬を差し出す。差し出された塗り薬を彼の背中に塗る。彼の背中は、青あざと痂、赤く腫れた膿疱で、でこぼこが大小背中一面に広がっており、ミサキは息を呑む。両手一面に透明な薬を塗り、そっと彼の背中に塗りつける。背中はやわらかく温かだ。

 柔らかな膿疱を指で押すと黄色い膿がにゅるにゅると押し出されてくる。痛いだろうなあとミサキは思う。大きな膨らみを押すと、中には固まったものがあるようだ。傷口を開き、指で押し出すと、そこから三センチ超の葱の切り身が姿を表す。冬の鍋に入っている、美味しそうな色。葱を二切れ取り出す。司祭は声を出すことはないが、喜んでいるようだ。これで少しは苦痛から解放されるであろうとミサキは胸をなでおろす。


 一ヶ月後、ミサキは退院した。彼女の右手にはNidec製の義手が装着された。


 海岸岸壁の自宅に帰ると、そこには日陰がいた。高校2年生から家に引きこもり、陽の光を嫌う弟である日陰は、いつものようにONLINEゲームに向かっている。姉がどういう状態かわかっているはずなのだが、言葉はない。

 

「ただいま」ミサキが呟く。

「おかえりなさい」日陰。吹き抜ける海岸の風。海の匂いが漂う。

 カチャカチャ金属がぶつかる音のする右手をひらひらさせ、弟に見せる。

「どう、格好良いでしょ。神経に接続して、今までと同じように動かせるの。少し反応が遅いのだけれど、慣れればお箸も持てるようになるって」精一杯、明るく振舞う。

「…なんて言っていいかわからない…」呟くように、でも視線は合わしてはくれない。

「いいのよ、慰めなくても。大体、警報が鳴っていたのに、あんなところにいたのだから自業自得。こっちこそごめんね。なかなか帰ってこれなくて」

 日陰は、ゲームのコントローラーを動かさず、下を向く。「なにもかも嫌だ」

 困ったな、とミサキは思う。また思い詰めてしまう。

「そうそう、ゼルダの伝説はどう?うまく攻略できている?」

「まだ農作地を耕しているところ。ここから飼料となる向日葵を植えるんだけれど、耕作者がいないんだ。ハローワークに募集をかけなければいけない。誰かいい人いる?」話が切り替わり、少し流暢な話しぶりに変わる。


 日陰は、本当はプラトンだ。現世では引きこもりの青年だが、ギリシア時代を代表する哲人であるその精神は、三千年の時を経て、摩耗し、消えかけている。しかし、当時の記憶をかろうじて意識の底にへばりつけ、この二二世紀を生きながらえている。また混乱もしている。何が現実なのか、何が本当なのか、彼はわからなくなっているのだ。今あるのは、ディスプレイの中のゲームの世界と、義手を持つ姉とのやり取りの世界、そこから突き破ることのできない苦悩。それが彼を寡黙にしている。


 「でも、きっとそのうち、多くの人々が賢明に社会を作るんだろう。ねえミサキ。僕はそういう風景をなんだか覚えているような気がするんだ」

 「莫迦ね、今でも社会は立派に成立しているわよ。あなたが家にいる間にね」

 「でも、ミサイルが飛んできた」

 「そうね、完璧ではないわ、この世界も」

 「僕は知っている。恐ろしいことがきっとこれから起こる。それにミサキは巻き込まれていくよ。ねえ、もうずっと家にいるべきだよ。でかけちゃだめだ」

 「変革の意志を持つ者よ、私は(私たちは)。だからそういう訳にはいかないの」

 なんだか浮世離れした会話だなあ、とミサキは思う。でもいつもこんな感じなのだ。日陰は存在そのものが浮世離れしているのだから、仕方ない。


 「ゲームの話でもあるんだけど、どうすれば人は言葉以外で、わかり合えるようになるのだろう。言葉以外で、会話することはできないのだろうか、ずっと考えているの。たとえば、キャラクターAにこちらから、キャラクターBの心を教えることはできないだろうかと思う。テレパシーみたいなものって、あり得ると思う。表情を読むのとは違うよ。本当に心同士で繋がり合えるようになると思うんだけれどなあ」天井の斜め上を見ながら日陰=プラトンは饒舌に話す。


 「現代の脳科学から考えて、シプナスの流れを電気変換し、それを移入するということが理論的にできると思う。みんな、いいところまでいってるんだけどなあ」

 「何かしらの媒介がいるんじゃない。それは機械なのか異なる次元世界なのかはわからないけど」いいかげんにミサキは答える。

 「そう、むかし僕も考えた。異なる次元世界のマシンがいるよ」はっと気づくように日陰は語る。「それがいるんだ。ディオティマ」「ディオティマ?」「そう、ディオティマ」

ディオティマとは、『饗宴』に出てくるソクラテスが話す、女預言者・巫女・祈祷師・ソクラテスにエロスの何事かを指し示す賢者のことだ。『饗宴』は無論プラトン作であり、ディオティマもプラトンが創作した物語上の架空の人物であるとされている。

 「ディオティマは、異次元の訪問者さ。ゼウスに讃えられるほど、我々とは何もかも違っていた。というか、我々より優れている、とその当時は思っていたんだ。よく考えれば、彼女はタイム・トラベラーだったのかもしれない」

 「まあ、おもしろい。SFな話」ミサキは台所に立ち、冷蔵庫からベーコンと鶏卵を取り出す。

 「あのころ、何が正しいのかなんて誰もがわかっているかのような時代だった。しかしそこから精神は混迷を深め、歴史はぐるぐる巻きになっていくの。私も1000年くらい前まではもう少し明晰な思考を保っていたのだけれど、もういまや、何がなんだかわからないの。」

 「それでもいいんじゃない。十分あなたはよくやってるわ。まあ、私もだけれど」

 キンレイの冷凍鍋焼きうどんを袋から取り出し、鍋に入れ、火にかける。氷状のスープが溶ける間にベーコンを角切りにし、卵を割って小さい陶の器に入れ、投入の準備をする。

 「戦争が始まるのかな?」日陰は不安そうに言う。

 「そうね、戦争になるかどうかわわからないけど、大変な騒ぎにはなっているわ。既にもう」

 「明日は外に出て、様子を見てみよう」といったものの、果たしてそれが正解なのか、彼には確証がない。「もう、ネットニュースは見飽きた」

 「あら、ゼルダは置いてけぼり?まだ始めたところじゃないの。ゲームの世界のほうが清潔で生きやすいわよ」言ってみたものの、ミサキも彼が外出することには何かしらの期待を持っている。彼ほどの賢者が動き出せば、世界が変わるかもしれない、などと、夢のような考えも頭の片隅にはあるのだ。

 「はい、ベーコンと生卵入りの鍋焼きうどんの出来上がり。一緒に食べよ」

 「ありがとう。熱っ。ああ、僕は猫舌だった」

 ここから海は見えない。潮の香りはうどんの醤油出汁の香りとの相性がいい。ミサキと日陰は束の間の幸せを味わっていた。


**


 勾玉は胎児、その怨念を懐いて人は死ぬ。生きながら死を夢見、夢遊病者のごとく路地をさまよう。粘菌の年金を指折り数えて待ち望む母親はもう九十歳だ。帯状疱疹の苦痛から脱し、いまは練乳を麻薬のように渇望する。どこまで明晰でどこから惚けているのかなど、本人にも、誰にもわからない。ということは、不撓の世界が彼女の中にある。


 言葉は、何も残しはしない。では夢は。常人ならそれこそ何も残しはしないと考えるだろうが、三隅正和は逆の考えを持っている。夢こそは現実、リアルであり、真なる現実こそ虚ろだ、と思う。誰からも教えを請うた訳では無いが、むかしからその確信があった。それは彼が夢見がちな少年(字義通り、夜寝て見る夢のこと)だったからかもしれないが、その信念が、彼を卓越した世界観をもつ人間に仕立てた。


 岩は死、もしくは宇宙。岩を抱いて人は生きる。アルファとオメガが交差する光のなか、宇宙を構成する単子が見える。で、私は今何をしているのだろう。

 割れたガラスの中にうつ伏せ、ところどころから赤い血の付いたシャツの袖を他人のように見るが、それは自分だ。痛い、という感覚が、混濁した意識から彼を我に帰させる。


 消防のサイレント救急のサイレンが重なり合う。三隅はガラスの破片で負傷した学生たちを運びながら校舎の破損を仰ぎ見る。コンクリートの校舎はその4階建屋のすべてのガラス窓が割れ、402号室の黒板が地上から見て取れる。ただ、それ以外の被害はなさそうだ。警察、学校関係者、他わらわらと人が集まってきているなか、三隅はふらふらとその場を立ち去ろうとするが、職員に抱えられ、救急車に乗り込むこととなる。ガラスの破片で実は血まみれだったのだ。「なんなんですかこれは?」「烏丸付近に北朝鮮からのミサイルが着弾したらしいんだ。その爆風がここまで来たんだよ」大学事務局の若い事務員が漏らす。「なんてこと」顔面蒼白だが、怒りをもって彼は呟く。


**


 「むこうからやってくるもの、それは何だ?」日陰はミサキに疼くように呟く。

 「むこうからやってくるもの?さあ、なにかしらね。それはどういう意味?」

 「歴史上、さまざまなものが外部から侵入する。バルバロイ然り、モンゴル人然り。この国で言えは江戸末期にやってきた西洋人、それとともにやってきた民主主義や資本主義、共産主義もそうかもね。ああ、それを言うなら二元主義や一神教もその中に入るかもしれない。台風や地震と同様、向こうからやって来るものがいつの世も、変化をもたらすのさ」

 「そうね、それって別におかしなことじゃないわ」

 「そうだね。でも僕はなんだか不安なのさ。何かまた。そうしたことがここに、今ここに起こるんじゃないかって思うのさ」

 「ふうん」

 「悪いことじゃない。もしかしたらいいこと、僥倖かもしれない、とっても感覚的なことだけど」遠くを見ながら日陰は呟く。

 「ふうん」

 「そう、それはハウ(精霊)が騒ぐような感じ。虫の知らせってやつかね」

 「わたしはあなたの話を聞くことしかできないけれど、まあどちらにしても、なんとかなるんじゃない。どちらにしてもすぐには来ないのでしょ?」

 「ああ、そうだね、これからさ。それは、感覚で捉えることができない、無のようなもの。存在を生み出す不在、と言えばいいかもしれない」

 「まあ、空が落ちてくるといって怯えている不安神経症のおばさんではなさそうね。心配ないわね。この話はここまで。おやすみなさい。テレビは消してね」



***


 寝言。

 「ねえ日陰、あなたがプラトンなの?あなたはプラトンなの?」

 「クミコ、あなたはミサキなの?それとも、あなたがミサキなの?」


***

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