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【一つ目の扉は銀河に溶ける】 《極私的短編小説集》

 逃げているわけではない。ただそこにいる。暗闇の中、街の中、路地を歩いている。何処に行こうとしているのか定かではない。自分自身の意志は見えない。意志は既にずらされている。緩やかな石畳の下り坂をとぼとぼと歩く。モッズコートのポケットに両手を突っ込み、背を丸めて歩く。しみったれた顔で歩いているのだろう、ずっとそうだった。いままで。


 重い灯りが見える。その灯りの下には紫紺の外套コートを着たスパイが待ち伏せしていて私を襲おうとしている。わかってはいるが、逃げるつもりはなく、話し合いでなんとか妥結点を見いだせないかと考える。賄賂か、説得か、懐柔か、選択肢は少ないがない訳ではない。できれば美しいスパイがいいと考えながら近づく。夜のとばりは重く、暗い。


 「強欲に生きていくのね、あなたは」スパイが嗤う。


 「そのつもりはなかったんだ。行きがかり上そうなってしまったが」


 スパイは黙って外套を開闢かいびゃくする。さぞ美しい全裸が現れるかと思いきや、そこにあるのは漆黒の宇宙と銀河であった。マゼラン星雲、馬の頭星雲、オリオン大星雲、超新星の残骸である蟹星雲、恒星ケンタウルス座α星、渦巻きのろ座銀河、恒星のシリウス、プロキオンなどの色取取りの光源が散りばめられ、その深遠な奥行きが感じられる。束の間、その銀河群に見惚れてしまう。


 しかし彼女はそれをすぐさま閉じ、こちらを向いてふふっと嘲笑あざわらう。視られることに満足げだ。それが彼女のしんであり、しんであり、しんなのだ。


 「でも、これではないのでしょ。あなたが追い求めているものは」


 「それがわからないんだ。もしかしたらもう少しすれば出てくるのかもしれない」


 スパイである彼女は落胆し、少し寂しそうな表情をし、向きを変える。背景に存在する居酒屋の扉を開き、捨て鉢に言い放つ。

「ええ、おいていくわよ。こんな場面でぐずぐずしている時間は私にはないわ。コードなき差異の戯れに死ぬまで付き合っていなさい。シニフィアンはあなたに何も教えてはくれないわ。シニフィアンはあなたに肘打ちを喰らわすだけだわ」


 彼女は部屋の中に消えていく。一度閉まったその扉を、私は追いかけるように開き、中へ入っていく。すべては少しずつ、ずれていく。

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