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連載小説【夢幻世界へ】 1−1 石化した彼女

割引あり

【1‐1】


 どうやってもうまく歩くことができない泥濘ぬかるみの勾配に辟易へきえきしながら前を仰ぎ見ると、鬱蒼とした竹藪の隙間から目的地の白い建物が現れた。

 コンクリートむき出しの壁から、小さな両開きの窓がいくつも均等に並んでいるその建物には、あと十数分で到着できるであろう。

 重い足取りの中、なぜいまここにいるのかといった問いがやってくる。

 シダ類の葉の中に妖精蛾が3匹、包まるようにして留まっている。妖精蛾というのはこの地域の呼び名で、頭部が人間の女性の顔に酷似していることからこの名が付けられた。

 入り口で呼び鈴を鳴らすと、守衛が現れ、「入館許可証を」と言う。今回は急な呼び出しであり、持ってくるのを忘れてしまったことを告げると、不機嫌そうに奥へ入っていった。

「気付いた時には遅いのです」

 いつもあなたはそうですね、どうしたら忘れなくなりますかと担当医師から小言を言われ、自責の念にかられながら廊下を歩き、病室へ向かう。

「最近は少し回復してきたと思っていたのですが」
 担当医は残念そうにつぶやいた。
「昨日からまた症状が現れ、今朝にはこの状態になってしまいました」

 部屋に入ると、そこには石化した彼女が座っている。

 彼女の輪郭は数秒ごとにぶれ、立像が乱れながら青白い蛍光を放つ。
医師によると、立像のぶれは時間軸の違う次元が干渉しているためとされている。それが過去か未来かはわからない。
 その視線は上向きに固定され、なにかを探しているようにも見える。その口元は、微かな笑みを浮かべている。

「ぶれ幅が以前より大きいですね」
「干渉が大きいのでしょう」
「綺麗な色だ」

 つい思っていることを口に出してしまう。深刻な状況であればあるほど、そこから逃げ、遊離して、とぼけた言い方をしてしまうのが私の悪い癖だ。心の中ではこの状況を重く、苦しい出来事として受け止めているのにも関わらず、いや受け止めて、受け止められないため、このような場違いな言葉が出てくるのであろう。

「美しいものには毒があるのです。もしくはそれ相応の懊悩おうのうが」

懊悩などとあまり使い慣れない言葉を担当医師は言う。まじまじと彼の顔を見るとその眉間には彼の生来の苦悩を表すような深い皺が刻まれている。

 プランク時流体ベータ計測機器によると、マイナス粒子、ここでは過去の次元エネルギーがより多く干渉してきている。その干渉は8時間前から徐々に増え、今では彼女の実現する物質量の半分近くをマイナス粒子に変化させている。つまりこのままでは彼女は過去に消えてしまうのである。対処療法として立像の固定化を行う薬物を与えようにも、石化した彼女に含ませることができない。そもそも固定化・安定化物質は一時的な効果しかなく、原因を突き止め取り除かない限り、この症状は治らないとされている。

 彼女の後方にある木製の机には、2冊の日記とペン立て、マグカップが乱雑に置かれている。そのマグカップの底に、走り書きのメモが置かれている。昨日彼女がまだ動ける時に書いたものらしい。私はそのメモを読んだ。

「GB/大爺」
「無意識は他者の欲望」
「あるべきようは」
雲雀ひばりを追え」

 バラバラの意味の繋がらないフレーズが走り書きされている。
「これは、ひとつずつ、筆跡が違いますね」
 担当医が呟いた。
「違う人格、もしくは違う次元、時間帯の彼女が書いたのか、そもそも違う他人が書いたのか・・・」
「どうしてそう思うのですか」
「彼女は異なる時空間の干渉を受けています。そのなかから、彼女を操作しようと考える意思を感じます。石化は、彼女がその意志から身を守るための苦肉の策であると感じます。不憫な」

 このまま、不明確なやりとりを続けていてもらちがあかないと感じた私は、とりあえずそのメモを持って、鑑識へ向かった。鑑識官のいる部屋には数名の職員が机に向かい忙しそうに電算機のタイプを打つ。その奥にあるスキャナーにメモを入れ、時流体計測を前後500年シールドに設定し検査する。結果は210年前と3年前、59年後と498年後と計測された。
 そこからの熱量による筆跡であることは明白だった。

 申請書に4つの行き先と、セキュリティコードを記載し、判断者に提出する。大いなる判断者は事も無げに書類に判子を押し、制約と誓約を述べ、愛のこもった眼差しで「いってらっっしゃい」と私に告げた。

 何が見つかるのかは全く私にはわからない。しかし行かないという選択肢は私にはない。

 彼女を引き寄せることができるのは、この私しかいないのだから。

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