富士の湯に(終)

寒い。昨日とはまるで別の場所みたいだ。水がドバドバ流れる音がうるさくて、耳をすませても他の状況がわからない。ガラス戸の隣に張り付いた状態で首をゆっくりと回して覗いてみると、すぐそこに人の後ろ姿が見えた。ダメだ、ここから一歩も動くわけにはいかない。しかもドアを開けられた瞬間にゲームオーバーだ。

それにしても、本当に死ぬかと思った。死んだと思った。咄嗟に思い浮かべたのがここだったのは、まあしょうがない。昨日の今日だし、死ぬよりはマシだ。とにかく、この時間にこの場所で全裸じゃあもう完全にアウトだ。なるべく外から見えないように壁に張り付いて、あとはもう営業が始まるまで待つしかない。

……いや、ちょっと待て。今が営業準備中なんだとすれば、ここをこれから掃除する可能性もあるんじゃないか……?

冷たい壁に接した背中に、さらに凍るような衝撃が走った。誰かがこれから入ってくるかもしれない。

水の音が止んだ。何か人の話し声が聞こえるけど、その内容までは聞き取れない。次の作業は何だ。ここに入ってくるのか?

あごの先から冷や汗が一滴、板張りの床に滴り落ちた。この床、かなりきれいなように見える。周りを見回してみても、特に目立った汚れはないような気がするし、においを嗅いでも、ただヒノキの香りがするだけだ。これはかなりきれいなんじゃないか。そうだ。掃除終わってるんだ、きっと。

外の声が段々遠くなって、ガラッと脱衣所の戸を開閉する音が聞こえた。助かった。そう胸をなでおろした瞬間、もう一度ガラッと戸の音がした。

………………ガラス戸の向こうに、白い裸足が覗いた。それを合図とばかりに、空っぽの胃袋を絞り上げるように腹が尋常じゃない音量で鳴り響いた。

浴場側に吸い込まれるように、ドアがぬうっと開いた。ああ、終わった……。

恐る恐る横目で見ると、黒いホースを握った手がゆっくりと入ってきた。手首が見えて、腕が見えて、ホースの根元のボンベが見えて、それが消火器を持って入ってきた女性なんだと気づくと同時に、反射的に九十度ターンして、彼女に背中を向ける格好になってしまった。そのまま数秒間沈黙が続いた。どうやら問答無用で消火器を発射するつもりはないらしいことはわかったけど、かと言ってこの格好で振り向くのも問題があるし、と思った瞬間、拍子抜けするほど冷静な声が背後から聞こえた。

「別に慣れてるんで大丈夫です」

慣れてる…?

何が…?

一瞬意味がわからなかった。

「あ…ああ、すいません、僕のほうが慣れてないもんで」

初対面の人に全裸で尻を向けた状況ですら何となくそれらしい会話をしようとしてしまう自分が情けない。さっきまで壁に接していた背中を冷たい空気がスーッとなでた。

「昨日もいらっしゃいましたよね?」

「ああ、はい…すいません」

後ろを振り返れないまま答えた。

「今すぐテレポートすれば済むんじゃないですか?」

「いや、それが一回使うと二時間近く使えなくなるんですよねえ…」

「ああ、やっぱりそういうものなんですね」
あれ…?

思わず上半身だけをねじって後ろを振り返った。さっきは一瞬しか姿が見えなかったジャージ姿の小柄な女性が、裾を膝までまくって、後ろ髪を結わえて立っていた。消火器はもう構えていなかった。

「先に言っておきますけど、窃盗に関しては正直どうでもいいんですよ、また通報するのも面倒だし」

「ああ…」

「あなたが本当にそういう能力を持ってるんだとすれば、そっちの方がどう考えても重要でしょう」

何だ、この人は?いや、この状況では自分のほうがよっぽど『何だ、この人は?』なんだけど。そのはずなんだけど、この人は何だ?

「私もまだ半信半疑なんですけど、というかついさっきまでは、やっぱり自分が何か見落としてる可能性のほうが遥かに大きいって当然思ってたんですけど、このタイミングで、ここに、その格好で出てこられてしまうと、馬鹿げてますけどそうなんじゃないかと考えざるを得ないんですよ」

「ああ、なんか…すいません」

淡々とした口調で言われて、自分でもよくわからないまま謝ってしまった。

「こう見えても、かなり動揺してるんですよ、私。どう見えてるかわかりませんけど」

「はあ…」

動揺してるようには見えない。明らかにこっちのほうが動揺してる。

「ところで、裸にならないとできないものなんですか?」

「へ…?」

「いや、馬鹿げた前提に立ってみた上でずっと考えてたんですけど、昨日の
あなたの行動を無銭入浴目的と見なすと辻褄が合わないというか、メリットとデメリット釣り合わないと思ったんですよね。無銭入浴できる代わりに帰りに服盗まなきゃいけないって、話めちゃくちゃだし…」

ゆっくり喋ってるのに、何だか割って入りにくい空気がある。

「ってことは、銭湯にタダで入浴するために裸で来たんじゃなくて、裸でしか来られないから銭湯を選んだんじゃないかと。いきなり裸でも大丈夫な場所で、なおかつ自然な流れで服も手に入る。一人暮らしでもないんでしょう?自分の家に飛べないってことは」

ほぼ図星だった。

「ただいくら銭湯でも、現れたその瞬間を見られちゃったらアウトなわけで、リスクは高いですよね。うちがはじめてだったかどうかはさておき、まだそんなに回数は重ねてないはず。思いついた方法を実際に試してる状態なんですかね…?それにしたって、昨日の今日で同じ銭湯使うのは明らかに無謀だし、成功体験をなぞらずに昨日より少し早い時間に来るのも不自然なんで、何かやむを得ない事情で咄嗟に飛んできたって感じかな?」

「…………」

「聞いてますか?」

「ああ、すいません……大体合ってます…」

「それはよかった。で、『裸にならないとできない』って私さっき言ったと
思うんですけど、それも実は少し違うんじゃないかと思うんですよ」

ああ……

「テレポート…の話と仮にするならですけど、あくまで。そこに『裸』って要素が絡んでくるのって、要はどこまでを『体』と見なすかって話だと思うんですよ。体を今ある地点から別の地点に瞬間的に移動させる、その『体』ってどう定義するのかっていう。そう考えると、文字通り『体』、つまり人体しか飛ばせない、だから服はその場に置いて行かれる。裸じゃないと出来ないんじゃなくて、『結果的に裸になってしまう』って考えたほうが筋が通ると思うんですよ」

「はい…」

猛烈に恥ずかしくなってきて、思わず壁の方にうつむいた。

「ところで、昨日もかなりお腹が鳴ってましたよね?」

「はい……実は…」

「胃の内容物も『体』じゃない」

「そういうことらしいです…」

「飛んだ先には裸で現れるしかないし、消えた跡には内臓の中の物が残る。この分だと、何かを手に持って消えることもできなさそうですね」

「現実は地味で不便なんです」

「十分に派手で便利な気もしますけど、確かに使いみちには困りそうですね」

「正直、どう使っていいのかさっぱりで……」

いつの間にか相談のようになっていた。

言われてみれば確かに昨日も見たようなそのおじいさんは、一瞬こっちを見たもののそれ以上は詮索する様子もなく、隣の薬湯の浴槽に浸かってくつろいでいる。顔なんて覚えていないだろうという番頭さんの予測は当たっていた。服を拝借してしまった若い男の方は、いつもこの曜日には来ないらしい。あれだけ自分のことをずばずばと言い当てられただけに、かえって番頭さんの言葉には抜群の安心感がある。

それにしても、あったかい……。はじめて力のことを他人に明かした今、何か憑き物が落ちたような解放感とともに湯の温かさが身に沁みる。大変な一日だった。

「とにかく、お風呂に入って行ってください」

それに続いて番頭さんが出した条件は、まず入浴料金を払うこと。当たり前だ。そして銭湯としてもサウナに全裸の男が急に現れるという怪奇現象にお客さんや職員が遭遇してしまうリスクを背負わされたんだから、その分の補償もすること。金額は言われてない。あとは、明日もう一度、営業前の指定の時間にここに現れること。なんだかんだ言っても、実際に目の前でその瞬間を見ないことには、あまりにも馬鹿げていて信じられないらしい。これも当たり前だ。

明日ここに来る時に金を持ってくることはできない。風呂から上がったら一度家に戻って、金を持ってここに戻って来ないと。明日も来るんだから三日分だ。なんて不便な能力なんだ。これは一体、何に使えるんだろうか。湯に身を浮かべて仰向けになると、体が消える時のあの感覚が一瞬蘇った。天井から結露した雫が一滴落ちてきて、避ける間もなくぽたりと額に落ちた。冷たい。

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