富士の湯に(1)


 田所は適度に温まった体を起こし、ジェット風呂へと向かった。壁の上部に設えられた小さな窓から、ようやく白味を帯びて勢いを増しはじめた日の光が差し込み、すりガラスと立ち込める湯気によって二段階に乱反射して、ぼんやりと浴場内に拡散している。一方、浴槽の噴射口から空気とともに吐き出された水流は程よく蓄えられた皮下脂肪を介し、夜通しの作業で凝り固まった田所の腰を刺激した。

「おおっ…つぅ……」

 毎度のことながら思わず唸ってしまった田所だが、それを聞いているのはただ一人、隣の薬湯の浴槽に浸かっている常連のお爺さんだけだ。週に何度も会うので面識はある。どころか、お互いの裸も知ってる。田所が来る頃には浸かっていて、田所が上がる頃にもまだ浸かっているので、むしろお互い裸しか知らない。それでいて名前も知らない。裸で風呂につかってる時以外、何をしてる人なのかもわからない。たまに二言三言、全裸で言葉を交わす程度の関係である。よく知らないがよく知ってる、絶妙な他人だ。

「うはぁ……」
 
 口を半開きにして恍惚と見上げた先、洗い場の壁の上に掛けられた時計は、きっかり6時半を指している。銭湯「富士の湯」の長い一日のはじまりを告げる朝風呂営業は、田所にとっては長かった一日の終わりのはじまりだ。あとはうちに帰って酒を飲んで寝るだけである。
 
 ジェット水流を強硬に弾き返していた田所の腰の筋肉が徐々にその態度を軟化させ、湯と体の境界線がぼやけていく。脚を伸ばし両手を広げると、体が少し浮き上がる。もはや湯に対して全面降伏をした形となったが、田所の体は湯に制圧されたようでもあり、同時に湯と一体化することで浴槽の隅々にまで体が拡張したようでもある。そうしてぼんやりと天井を見つめる田所の視界の一番左下に、ちらりと黒い塊が映った。
 
 目玉だけを動かしてその物体を追うと、それはどうやら人の頭であった。洗い場の左端にあるサウナから出てきたと思われるその頭の主は、田所が浸かっているジェット風呂の隣の水風呂に入った。もう一人、この浴場に人が居たのか。そのまま右隣に目玉を動かし、湯に浸かるお爺さんを見てみる。特に気にする様子はない。自分よりも早くここに来るのはお爺さんくらいだとばかり思っていたので不意を突かれたが、田所が浴場に入って来る前から今にいたるまでサウナに入っていたというのも、別にありえない話ではない。今日は珍しい日だ。適当に解釈して、田所は再び天井を見上げた。すぐに水風呂の方からざばっと音が聞こえ、ぺたぺたと横切り、ガラッ、ガラッと脱衣場のドアが開閉された。もう少しゆっくりしていけばいいのに、と田所は思わないでもなかったが、一瞬全裸を見ただけの赤の他人の入浴時間など気にしても仕方がない。意識の焦点をぼやかして、田所は湯の中に溶けていった。

 

 驚き脱力した喉の奥からげっぷが漏れ、再びフルーツ牛乳の香りを感じながら、田所は脱衣所のカゴの前で立ち尽くした。服がない。風呂上がりから帰宅、就寝までを快適に過ごすために着て来た、てろってろのグレーのスウェットの上下。もちろん高価なものではない。見栄えも悪い。とてもじゃないが盗む価値のあるものではない。自分の服と間違えて着て帰ったのか…?しかし、そんなはずはなかった。カゴに残された田所のトランクス。下着だけ置いて行ったらしい。潔癖症か…?いや、ならそもそも、なぜわざわざ他人の服を。
 
 いずれにせよ、犯人はさっきサウナから出てきた男に違いない。そして田所が今ここで着られる服は、その男が残していったはずの服しかない。他人の安物のスウェットを盗むような輩が着ていた服なんて、およそろくなものではないだろう。嫌々ながらも田所は周りを見回した。上下3段の棚にいくつも並んだカゴ。
 
 服が入っているものが1つしかない。それはどう考えても、まだ浴場の中にいるお爺さんのものだ。一応、近づいて中を覗くと、丁寧に畳まれた服の一番上にボクサーパンツ、そしてカゴの角の部分に引っ掛けるようにハンチングが置いてあり、何だか顔なじみのお爺さんのプライベートをはじめて垣間見てしまったようで、田所はすぐに目をそらした。
 
 もう一度、今度は丁寧に、一つ一つ、カゴの中身を覗いていったが、結果は同じだった。この脱衣所にある服は、お爺さんのそれと、自分のトランクスのみ。田所は途方に暮れた。立ち尽くした裸体から湯気が立ち込め、風呂で蓄えた熱が徐々に放出されていく。そうしてふと我に返った田所は、とりあえず残されたトランクスをはいた。背後の壁に掛けられた時計はちょうど7時を指していた。

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