ダンジョン飯と骨太の葛藤


 片山順一です。今回は、漫画の感想を述べてみたいと思います。

 ダンジョン飯は数年前に凄まじい勢いで売れた漫画です。モンスターの成り立ちや生態に関する精緻な考察に基づき、食料として食べながらダンジョンに潜るというのがその内容であり、2020年11月現在既刊は9巻。

 ただ、実際読んでみると、思いのほか暗いというか希望の見えない物語で戸惑います。

 まず、魔物を食べる理由が切実なのです。

 主人公のライオスこそ魔物食マニアで魔物を食べることを楽しんでいます。が、ほかのメンバーはそうではありません。なのになぜ魔物を食べるかといえば、地上に戻る暇がないからです。

 ダンジョンに潜った主人公ライオスのパーティは、レッドドラゴンとの戦いで敗北し、妹のファリンをドラゴンに食べられてしまいます。ダンジョンで死んだ者は魂がその場にとどまるので、死体や血肉が残っていれば蘇生できます。ただファリンの死体が消化されてしまえば、彼女を生き返らせることができません。消化が進む前にレッドドラゴンを見つけて、胃袋から死体を救出し、蘇生させなければならないのです。

 それには、地上に戻って食料を補給している暇はありません。ライオス達は、魔物食をしながらダンジョンに住んでいたドワーフのセンシを仲間に加えて、彼の指導で倒した魔物を食べながらレッドドラゴンのいる深層へと急ぐのです。

 これが、ストーリーの導入です。魔物を食べて急がなければ、パーティーメンバーが死ぬから食べてたんですよね。

 暗いというのは、この先なんです。

救いはあるのか?

 ネタバレになりますが、ライオス達は無事ドラゴンを倒します。ただファリンは胃袋でほとんど消化されてしまっており、蘇生に必要な血肉が足りませんでした。仕方なくエルフの魔術師、マルシルが倒したドラゴンの血肉も媒体として蘇生させるのですが、これは禁止された古代の黒魔術です。
 黒魔術が成功し、無事復活したかに見えたファリンですが、魂がドラゴンと混ざり合って魔物化し、ダンジョンの主である狂乱の魔術師の命に従い、さらに深層に逃げてしまうのです。
 しかもライオス達は、禁止された黒魔術を使ってしまったかどで、お尋ね者になり、ダンジョンから出られなくなってしまいます。ダンジョンを閉鎖するために現れた、戦闘特化エルフのカナリア隊も追いかけてくるし、果たしてどうなるのか――といったところが、ここまでにコミックス化された大体のストーリーのまとめなんですよね。

 この時点で、あまり良い結末を求めがたいと思います。
 ですが、さらにほかのストーリーの軸があるのです。

 悪魔の甘い罠

 ライオスとはまた別のパーティのカブルーが、カナリア隊の隊長から聞かされたダンジョンの正体も、救いのないものです。じつはダンジョンは、悪魔が作ったものだったのです。ダンジョン飯における悪魔は、無限の存在する異界から来た正体不明の存在です。悪魔はこちらの世界の人間やエルフの欲望を叶え、欲望を食べて力を貯めるのです。こちらの世界に現れるために。ダンジョン飯において、ダンジョンを残した古代人は、悪魔に欲望を与えすぎて滅んでしまったのです。

 ライオス達は気付いていませんが、ダンジョンに幽閉されているといわれる有翼の獅子が、このダンジョンを作った悪魔なのでしょう。人間の世界になじめないライオスは、ファリンを助け出した後、有翼の獅子に願い、ダンジョンを継いで魔物と人間がまじりあって暮らす世界を望んでいるようです。また、半魔物化してしまったファリン、エルフの長命ゆえに人間と死に別れる痛みに耐えられないマルシル、理性がありながら半魔物化しているイヅツミなど、はっきり言ってパーティーメンバーは魔物と共存するダンジョンの方が生きやすそうです。

 ことは、理性によりすべてを制御する普通の世界と、魔物がかっ歩する異常な世界との相克の様相を呈してきました。普通のラノベなら、魔王になって魔物娘とのんびり暮らすという展開も、十分ありです。人間の作る理性の世界を最低最悪の悪者にして、楽しい願望を正義として全力で肯定し、お客様を楽しませる作品にまとめるのは基本テクニックともいえます。もはやひとつの定石でしょう。

悪魔という名前の意味

 ですが、ダンジョン飯は違います。悪魔がどれほど恐ろしいか、魔物がどれだけ危険でおぞましいのかが、しっかりと描かれているのです。

 たとえば、先述のカナリア隊に同行するカブルーは人間ですが、故郷の村の近くにできたダンジョンが制御できなくなり、あふれ出した魔物に自分以外の全てを目の前で食い殺されました。親兄弟、親戚、同郷の村人全てを失った彼は、エルフに救われ、エルフに育てられたのです。

 カナリア隊の隊長であるミスルンは、かつて所属していたダンジョンの討伐隊で悪魔の誘惑にのってダンジョンを作ってしまい、制御に失敗して悪魔に欲望を食われました。仲間も全て殺され、悪魔への復讐心だけが食い残されて生き残った彼は、生きるための全ての欲望がマヒした状態で、空腹や眠気を感じません。自覚しないだけで飢餓や不眠のダメージを食らうので、誰かが無理やり食べ物を食べさせて、眠らせないと、生きていることもできないのです。

 圧巻は、欲望を食って迷宮から出てくる悪魔の絵です。九巻の190ページ、191ページを見開きで使って描かれた現実に現れる悪魔の絵は、恐怖すら掻き立てます。ダンジョン飯で見開きが使われることは珍しいのですが、ここはその効果を十全に活かしています。人がどれだけちっぽけか、悪魔の前にいかになすすべがないのか、これほどわかりやすく描かれた絵は珍しいと思います。

 私は、ブリューゲルの描いた悪魔の絵や、ベルセルクにおける、おぞましい蝕の光景を思い出しました。そもそも、ダンジョン飯の世界観における悪魔は、古代人が無限を求めて開いた異空間に暮らす存在であり、根本的にこちらの世界と相いれないものなのでしょう。ベルセルクでいうなら、異界に存在するゴッドハンド達とも似ています。

人間の世界にない希望

 一方で、人間の世界がいかに狭量で醜いかは、いやというほど描かれてもいます。もういいじゃないか、悪魔の世界で。魔物を食べる楽しいダンジョンだってできるよ、などと思いたくなるようにも描かれています。ダンジョンに潜る冒険者は、目先の欲にとらわれ仲間を騙して殺したり、殺されたり。カブルーの村のダンジョンが制御できなくなったのも、めぼしい宝がとりつくされて誰も潜らなくなり、魔物が増えてしまったからです。この世界に弱者を守る『ゴブリンスレイヤー』はいません。主人公のライオスだって、その妹のファリンだって、人間の世界で半ば爪弾きにされて冒険者をやっています。こういう、冒険者のその日暮らしっぷり、冷徹ぶりや自分勝手さを描いているのは、最近の作品では珍しいのではないでしょうか。

 さきほど貴重な見開きと書きましたが、同じ九巻で、有翼の獅子がライオスとの対話の末に見せた光景は、希望に満ちた見開きでしめくくられているのです。木漏れ日の中に飛び立つワイバーン、柔らかな風に揺らめく草原、無害な魔物を飼育し、食べて幸せに暮らす人々。これはけっして夢でも絵空事でもないというリアリティがありました。人間の世界を捨てた先が、ライオスにとってどれほど幸福か、ということではないでしょうか。


骨太の葛藤

 ダンジョン飯では、私の個人的な名作の条件である、対立する二つの意見の十分な根拠がしっかりと描かれているのです。この作品は、ある価値観の狭い読者を想定して、彼らを喜ばせるためだけに世界観をうまく歪めているタイプの名作ではありません。ライオスとカブルー、どちらが勝つのか。あるいは、勝たないのか。もしくは、なにか第三の道があるのか。

 物語の核心は、迫っていると思います。結末を、見逃す手はありません。
 『ダンジョン飯』は、自信をもって、この秋の夜長にお勧めしたい本です。

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