とある小説家の苦悩

その日も男は、
2人席用のテーブルでコーヒーを飲みながら、
ひとり読書をしていた。
ほど近い後ろの席には30代くらいの男が2人。
男は、彼ら2人の会話に耳を傾けていた。

男の職業は、小説家。
筒井新一という名で小説家を始めて、
はや30年になる。
ここ数年、
これといった作品が書けずにいるが、
文学愛好家の中で少しは知られた作品を
いくつか生み出してきた小説家である。

この日も、彼は
次なる小説のアイデアを求め、
他人の会話を盗み聞きしていた。

「そろそろ向かった方が良くないか?」
「いや、まだ早い。武田は起きてるにちがいない」
「しかしあの薬を飲んだんだから、もうそろそろ効いても良い頃だぞ」
「もう忘れたのか。牛一頭が30分で全身麻痺になるような薬を飲ませたのに、奴は俺らと数時間ほど酒を飲んだ後、牛丼を食いに行ったような男だぞ。甘く見ちゃいけない」

後ろの席の男たちから溢れる会話に、
筒井は興味を示し始めた。

なんだか、面白そうな話だ。
これは良い題材になるかもしれん。
筒井の顔には
薄っすらと笑顔が見えたが、
後ろの男たちに気付かれぬように
背中はピクリとも動かさなかった。

「本当に今日やるのか」
「当たり前だ。そのために、半年にも及ぶ準備をしてきたんだ。それに、もう別チームは動き出してる」

半年?別チーム?
これは随分と大掛かりな話だぞ。
武田という男、一体どんな人物なのだ。
ここまで大きな話になるほど、
どんな悪事を働いたのか。
いや、もしくはとてつもない金持ちで、
それを狙った集団的な犯罪か。
いずれにしても、これは面白い。
現実は小説より奇なり、と言うが、
実際小説になるような現実と遭遇することなど
滅多にあるもんじゃない。
これはこれは、有難いことだ。

手にした本をパラパラとめくってはいたが、
背中越しの会話にしか集中できていなかった。

「そういや、吉岡のチームから連絡は?」
「まだない。きっと奴らも武田が眠るのを待っているんだろう」
「だが奴らが先に動かなきゃ、俺らはここから離れることができないぞ」

まだまだ連絡なんかしてくるなよ、吉岡。
筒井は、吉岡からの連絡が
まだこないことを信じて、
アイスコーヒーをおかわりした。

「なぁ、吉岡のやつ、裏切ったんじゃないだろうな」
「変なことを言うな。あいつがそんなことするわけないだろう」
「しかし、俺らが奴を裏切ろうとしてるのが暴露た可能性だってある」

裏切り。
これは確実に金が絡んだ話に違いない。
ってことは、やはり武田は富豪だろう。
何をやってる男なのだ。
筒井は武田という人物像を想像しながら、
コーヒーを一気に飲み干した。

「あ、西森からメールだ。あいつ、近くまできたらしい」
「おお、良いところにきた。女性がいないと、こっから先は難しいからな」

西森?また新たな人物。それに女。
ここから先の作戦に欠かせないとしたら、
色仕掛けで武田を?
いやしかし、武田は眠りにつくわけだから、
色仕掛けというわけでもないか。
ただ作戦に必須な女とあれば、
これは美人に違いないだろう。
そういや最近、良い女を眺めてないもんだ。
いくら年を取ったといえ、
やはり男は良い女を眺めていたい。

ぶるっと身体が震えた。
コーヒーを飲み過ぎた上に、
美人とのあれこれを妄想し、
筒井はトイレに行きたくなった。

「西森に電話してみろよ。どこにいるって?」
その会話の続きが聞きたかったが、
筒井は我慢しきれずトイレに向かった。

筒井が席に戻ってみると、
既に男たちはいなくなっていた。

「しまった。帰られてしまったか。まぁいい。今日はかなり面白い話と出会うことができた。書斎に戻って一気に書いてしまおう」

筒井は会計を済ませ、自宅へと向かった。

「西森、ちょうどよかった。カフェで2人でやってたんだけど、ここからはどうしてもお前が必要なんだよ」
「いいわよ、べつに。ちょうどヒマしてたし。で、私はどの役をやればいいの?」
「ありがとう。もうすぐ本番だから、できるだけ練習しておきたくてね。西森には、この女の役をやってほしくて」

彼らが手にしているのは、
何やら演劇の台本のようなものであった。

「あ、この原作知ってる。わたし、わりとこの作家好きで読んだんだよねぇ。最近、ちっとも書いてないみたいだけど」
「さすが西森。マニアックだねぇ。詳しくは知らないけど、ここ数年、めっきり記憶力が悪くなったみたいで、小説書けなくなったらしいよ」

彼らが持つ台本の表紙には
「原作 筒井新一」と書かれていた。

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